砥沢城・胡桃城裡山砦(群馬県南牧村) [古城めぐり(群馬)]
←二重竪堀
砥沢城は、南牧衆の筆頭であった市川氏宗家の居城である。市川氏は、1567年に信州生島足島神社に奉納した起請文に、南牧6人衆として市川氏の兄弟3人が名を連ねている。即ち市川一族だけで6人衆の半分を占めていた。甲斐国八代郡市川を出自とする一族で、市河氏とも表記され、甲斐武田氏と同様に新羅三郎源義光を祖とする。その後、甲斐・信濃に一族が盤踞し、武田氏に従っていた。南牧の上州市川氏もその庶流と推測され、いつの頃か南牧に来住したらしい。武田信玄が信濃に進出すると、上州諸族の中ではかなり早い時期に武田氏に従った。一方、1553年に国峰城主小幡憲重は、留守中に箕輪城主長野業政の支援を受けた同族の宇田城主小幡景定に城を奪われた。憲重は武田信玄を頼り、武田氏の支援によって南牧の砥沢城に入った。これは、元々市川氏の城があったものを、若干の手を加えて小幡憲重・信貞父子が拠り、上州攻略の橋頭堡にしたと考えられている。その後、小幡父子は国峰城の奪還に成功した。
胡桃城裡山砦は、歴史不詳であるが砥沢城の尾根続きにあることから、武田氏の意向を受けて市川氏或いは小幡氏が改修強化した詰城と考えられている。
砥沢城は、南牧川と渋沢川に挟まれた標高510m、比高70m程の山上に築かれている。南東麓には市川氏の末裔の屋敷があり、往時のものかはわからないが石垣が確認できる。山上の要害部は細尾根上の狭小な城砦で、一部改変を受けているが、小堀切・小郭が残り、一部に石垣も残存している。
胡桃城裡山砦は、砥沢城から更に140m程登った、標高650mの西の尾根続きに築かれている。砥沢城同様に細尾根の小城砦で居住性はほとんど無いが、段曲輪群などがしっかりと残っていて普請の規模はより本格的かつ広範囲である。山頂の主郭は東西に細長く、背後に2本の小堀切を穿ち、西端に物見台を備えている。主郭側方には帯曲輪が築かれ、北東端には明確な桝形虎口が築かれている。この枡形虎口は、小城砦には不釣り合いなほどしっかり築かれた大型のものである。主郭の東尾根には数段の段曲輪があって、断崖に接している。これらの山上部から北東に降ると、尾根の北斜面には大型の二重竪堀とL字型の竪堀・横堀の連結構造が見られる。また尾根東の窪地状の部分には2段程の平場が広がり、石垣が明確に残っている。この石垣は耕地化による可能性もあるが、『境目の山城と館 上野編』では遺構と見做している。ここ以外にも数箇所に石積み跡が散見される。更に砥沢城に至る北東下方の尾根にも明確な段曲輪群が所々に築かれている。
遺構を見る限り、砥沢城と胡桃城裡山砦は一体運用されていたと考えられ、小さな城砦ながら武田氏による改修の痕跡を見いだせる。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:【砥沢城】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.156961/138.669412/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
【胡桃城裡山砦】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.155661/138.663876/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
砥沢城は、南牧衆の筆頭であった市川氏宗家の居城である。市川氏は、1567年に信州生島足島神社に奉納した起請文に、南牧6人衆として市川氏の兄弟3人が名を連ねている。即ち市川一族だけで6人衆の半分を占めていた。甲斐国八代郡市川を出自とする一族で、市河氏とも表記され、甲斐武田氏と同様に新羅三郎源義光を祖とする。その後、甲斐・信濃に一族が盤踞し、武田氏に従っていた。南牧の上州市川氏もその庶流と推測され、いつの頃か南牧に来住したらしい。武田信玄が信濃に進出すると、上州諸族の中ではかなり早い時期に武田氏に従った。一方、1553年に国峰城主小幡憲重は、留守中に箕輪城主長野業政の支援を受けた同族の宇田城主小幡景定に城を奪われた。憲重は武田信玄を頼り、武田氏の支援によって南牧の砥沢城に入った。これは、元々市川氏の城があったものを、若干の手を加えて小幡憲重・信貞父子が拠り、上州攻略の橋頭堡にしたと考えられている。その後、小幡父子は国峰城の奪還に成功した。
胡桃城裡山砦は、歴史不詳であるが砥沢城の尾根続きにあることから、武田氏の意向を受けて市川氏或いは小幡氏が改修強化した詰城と考えられている。
砥沢城は、南牧川と渋沢川に挟まれた標高510m、比高70m程の山上に築かれている。南東麓には市川氏の末裔の屋敷があり、往時のものかはわからないが石垣が確認できる。山上の要害部は細尾根上の狭小な城砦で、一部改変を受けているが、小堀切・小郭が残り、一部に石垣も残存している。
胡桃城裡山砦は、砥沢城から更に140m程登った、標高650mの西の尾根続きに築かれている。砥沢城同様に細尾根の小城砦で居住性はほとんど無いが、段曲輪群などがしっかりと残っていて普請の規模はより本格的かつ広範囲である。山頂の主郭は東西に細長く、背後に2本の小堀切を穿ち、西端に物見台を備えている。主郭側方には帯曲輪が築かれ、北東端には明確な桝形虎口が築かれている。この枡形虎口は、小城砦には不釣り合いなほどしっかり築かれた大型のものである。主郭の東尾根には数段の段曲輪があって、断崖に接している。これらの山上部から北東に降ると、尾根の北斜面には大型の二重竪堀とL字型の竪堀・横堀の連結構造が見られる。また尾根東の窪地状の部分には2段程の平場が広がり、石垣が明確に残っている。この石垣は耕地化による可能性もあるが、『境目の山城と館 上野編』では遺構と見做している。ここ以外にも数箇所に石積み跡が散見される。更に砥沢城に至る北東下方の尾根にも明確な段曲輪群が所々に築かれている。
遺構を見る限り、砥沢城と胡桃城裡山砦は一体運用されていたと考えられ、小さな城砦ながら武田氏による改修の痕跡を見いだせる。
枡形虎口→
←尾根上土塁の石積み跡お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:【砥沢城】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.156961/138.669412/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
【胡桃城裡山砦】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.155661/138.663876/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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