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西牧城(群馬県下仁田町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1558.JPG←御殿跡とされる山麓の平場
 西牧城は、小田原の役の際に小田原北条氏が北国勢に備えた城である。永禄年間(1558~69年)の武田氏侵入時代に既に存在していたとも言われるが、砥沢城との混同もあり必ずしも明確ではない。元々この地は土豪の高田氏の支配領域であり、武田氏侵入以前に高田氏によって城砦が築かれていたとも考えられている。1582年の武田氏滅亡後、北条氏が上野をほぼ手中に収めると、信州境を押さえる要地として、西牧城は松井田城と共に北条直轄地として重視され、強化されたと言われている。小田原の役の時には、歴戦の部将である武蔵青木城主多米周防守長定と相模藤沢城(御幣山砦?)主大谷帯刀左衛門嘉俊が西牧城に配されたが、小諸城主松平康国・康寛兄弟(依田信蕃の子)に攻撃され落城、多米・大谷両将は討死したとも捕らえられたとも伝えられる。但し、2人の大将が西牧城を守ったのではなく、西牧城と根小屋城に分かれて守ったとする説もある様だ。

 西牧城は、市ノ萱川南岸に築かれている。川沿いの段丘上の平場を主城域(居館)とし、その背後に屹立する山上に小城砦を築いている。まず段丘上の平場は現在耕地化され、何段もの平場に分かれ、石垣が築かれている。しかしこれらは耕地化に伴うものとも考えられ、どこまで往時の形を留めているかはっきりしないが、『境目の山城と館 上野編』の縄張図によれば最上段の平場に御殿があったらしい。また東の沢を渡る小橋が架かっているが、これが往時の大手らしい。一方、山上の小城砦は、古くは「鐘撞堂」と呼ばれたと伝えられ、物見と烽火台を兼ねた施設であったと推測されている。しかしこの小城砦は断崖に囲まれ、登坂路を見つけ出すのが難しい。北面の断崖を行きつ戻りつして迷った挙げ句、ようやく断崖と断崖の狭間にある急斜面に僅かな踏み跡を見つけて登ることができたが、この城の縄張り図を書いたお歴々はどうやって登り道見つけたんだろうか?と、驚いてしまう。山上には居住性のほとんどない小さな平場群だけで構成された砦がある。平場は全部で6つ。2郭には2基の石祠が祀られ、その背後に最上段の1郭があるが、本当にただの物見台である。1郭の南支尾根に狭小な南郭があり、武者走りで2郭と繋がっている。2郭の北東に3郭・4郭が段々に連なり、3郭の南に5郭があって、その脇に小竪堀が落ちている。いずれにしても詰城にもならない広さである。
 西牧城は、北条氏が重視したという伝承とは不釣り合いなほど、ささやかな遺構である。ただ山麓の居館部自体が川と沢筋で街道から隔絶されており、そうした地形を利用して守りを固めていたことは十分に考えられる。
 なお山上の砦への道が見つけられなければ、危険なので無理に登らない方が良い。
山上砦の3郭から見た2郭→IMG_1567.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【山麓の主城部(居館)】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.238190/138.696148/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

    【山上の砦】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.237186/138.695612/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


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