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内山城(群馬県中之条町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2267.JPG←2郭群背後の二重堀切の内堀
 内山城は、仙蔵城(仙蔵の要害)とも呼ばれ、武田氏の部将真田幸隆が嵩山城攻めの本陣とした城である。元々は岩櫃城主斎藤憲広に属した成田氏の城であった。1565年、真田幸隆は斎藤城虎丸が立て籠もる嵩山城攻撃の足掛かりとする為、300騎でこの城に駆け上がり、軍の指揮を執った。(いつ内山城が真田氏の支配下に入ったかは不明。)嵩山城が落城した後、折田将監は成田氏に代わって城を預けられ、関東無双の剛兵と呼ばれたと言う。しかしその後は存在意義が薄れ、まもなく廃城となったとされる。

 内山城は、嵩山城から胡桃沢川を挟んで西に広がる広大な台地の西側に突出した、標高584.9m、比高160m程の山稜上に築かれている。中世に吾妻地区から信濃に向かう本道であった沢渡・暮坂越えの街道を眼下に押さえる要地にある。城内には高圧鉄塔があるので保守道が整備されており、登り口さえ見つければ、主郭までは迷わずに登れる。登り口も、2016年の大河ドラマ「真田丸」効果で、わかりやすく表示されている。内山城は、大きく西側に湾曲した尾根上に多数の曲輪群を築いた連郭式の城で、城域はかなり広い。保守道を登って尾根に至ると、そこから北西の尾根に曲輪群が築かれているが、反対の南東にも物見台らしい小郭が散見される。主尾根を南西に登っていくと、鉄塔のある二ノ郭群に至る。多段式の曲輪で、南面から東面に扇形に曲輪を展開している。ここから派生する東尾根にも堀切と曲輪群があり、先端付近の斜面には2本の竪堀も穿たれている。2郭群の最上部には小さな土壇があり(櫓台?)、背後に二重堀切が穿たれている。この二重堀切を以って、城域は南北に大きく分割されており、一城別郭の城と評価されている。その上に主郭があるが、登道自体は大きく東に折れて、主郭の東尾根から登坂するルートとなっている。これは往時の城道のままのルートなのだろう。主郭東尾根にも堀切2本が穿たれ、腰曲輪群が構築されている。北斜面には竪堀群も穿たれている様である。ここから西に登っていくと、いくつかの曲輪を経由して、鉄塔の立つ主郭に至る。主郭は長円形の曲輪で、周囲にいくつかの腰曲輪を築き、背後にも堀切を穿って尾根筋を分断している。主郭の北の尾根には、一列に曲輪が連ねられ、それぞれ小堀切で区画されているが、この主尾根上の曲輪群は薮が多く、踏査が困難で辟易してしまう。この主郭背後の主尾根から西・北西・北の三方に派生する支尾根にも曲輪群が築かれている。これらの支尾根曲輪群では、普請がはっきりしない自然地形に近いものもあるが、最もはっきり普請されているのは真ん中の北西尾根曲輪群で、段曲輪群が一列に連なっている。尚、主尾根の北東端は林業用の林道開削で改変されてしまっている。
 以上の様に内山城は、城域は広いが、基本的に普請の規模は大きくなく、堀切も小さいものが多い。嵩山城攻めの本陣となった城ではあるが、真田氏も臨時の陣城として利用しただけの様に感じられた。
北西尾根の段曲輪群→IMG_2344.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.606132/138.798501/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


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タグ:中世山城
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