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稲荷城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2677.JPG←主郭西側の空堀と切岸
 稲荷城は、吾妻氏の家臣大野新三郎の居城と伝えられている。吾妻氏は、承久の乱の時に四郎助光が宇治川で討死して没落し、実権は家臣の大野・塩谷・秋間の3氏の手に移り、大野氏はこの稲荷城を居城としたと言う。大野憲直の時に、塩谷・秋間両氏を圧倒し、新たに岩櫃城を築いて居城を移したと言われている。また南北朝時代に討死した吾妻太郎行盛は、稲荷城で生まれたという伝承もある様だ。その後の歴史は不明であるが、現在残る遺構からすると戦国期まで使われたと推測され、岩櫃城防衛の為に改修された城と考えられている。

 稲荷城は、四万川と須郷沢川に挟まれた丘陵先端部に築かれている。城のある台地の南東端には稲荷神社があり、その裏から小道が城跡まで伸びている。民家の真裏を通る上、主郭の南側の曲輪も畑となっているので、城に行くには注意が必要である。台地北東端に五角形の主郭を置き、西と南に曲輪を配置した梯郭式に近い縄張りとなっている。主郭は南面に虎口があり、その西側側方に主郭南西隅の土塁が張り出して櫓台となり、横矢を掛けている。主郭周囲は立派な土塁で全周が囲繞され、特に西側の二ノ郭に面した土塁は規模が大きい。しかもここでは塁線が緩く弓なりに曲がっており、ここでも横矢を意識している。主郭周囲の空堀もしっかりと穿たれており、外周から見た空堀と主郭の切岸は見応えがある。空堀は東端も北端も彫り切った先で竪堀となって斜面を降っている。主郭の北と東の下方には帯曲輪が巡っており、これらの竪堀はこの帯曲輪に連絡している。二ノ郭は西側に一直線に土塁を築き、空堀を穿っている。またこの土塁の外、北西角に土塁で囲まれた方形の曲輪がある。その周囲も空堀で囲まれ、二ノ郭の空堀と繋がっていて、空堀はちょうど小文字の「h」の形となっている。城内はきれいに整備されているので、遺構の見事さと相まって見応えがある。尚、『日本城郭大系』の縄張図は主郭の形状などが正確さに欠け、『境目の山城と館 上野編』の宮坂先生の縄張図の方が正確である。
二ノ郭西側の土塁と空堀→IMG_2692.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.581349/138.825560/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

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  • 作者: 宮坂武男
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タグ:中世崖端城
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