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潜龍院(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_3469.JPG←石垣の残る潜龍院跡と岩櫃山
 潜龍院は、古谷館とも呼ばれ、真田昌幸が主君武田勝頼を迎え入れる為に築いた御殿である。1582年、織田信長による武田征伐が開始されると、武田勢は総崩れとなり、出陣していた勝頼は新府城に戻って今後の対応を重臣達と協議した。新府城はまだ築城途中で織田の大軍の攻撃に抗し切れないとの判断から、他の城への籠城が検討された。候補は小山田氏の岩殿城と真田氏の岩櫃城で、昌幸の献策が容れられ、勝頼は岩櫃城に向かうこととなった。昌幸は勝頼を迎える準備の為、先に岩櫃城に入って、勝頼の為の御殿を岩櫃山の南中腹に急造し、突貫工事で僅か3日間で完成させたと言う。これが潜龍院の御殿である。しかし勝頼は、途中で行き先を岩殿城に変更し、その途中で小山田信茂の裏切りにより逃げ場を失い、天目山で自刃して武田氏は滅亡した。使われることのなかった御殿は、その後昌幸の一族祢津潜龍斎昌月(まさあき)という山伏が拝領して寺とし、巌下山潜龍院と称された。

 潜龍院は、前述の通り岩櫃山の南中腹に位置している。南麓の国道145号線からの比高は110m程ある。古谷地区から東に登った奥に位置し、山腹に広大な平地が広がっている。その平地の北西部に高さ1.5m程の石垣で囲まれた方形の区画があり、そこが御殿の跡で、石垣は御殿の遺構とされている。しかし遺構はこれだけではなく、広大な平地の隅には櫓台らしい土壇があり、また平地の東西の入口は尾根で狭まっており、木戸口があったものと強く推測される。また平地の外縁部には腰曲輪も確認できる。潜龍院の東には岩櫃城の出城・郷原城があるが、その帰りに気付いたのは、潜龍院のある広大な平場の東端に切岸があり、そこに薮に埋もれた石垣があったのである。これも往時の遺構である可能性があるだろう。潜龍院は基本的に御殿であるので、城郭遺構としての面白みは望むべくもないが、勝頼を迎えるために整備された場所であり、歴史的事件に関連した類例の少ない遺構で非常に貴重である。
御殿跡の広大な平地→IMG_3408.JPG
IMG_3454.JPG←平地東端部の石垣
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.554379/138.796678/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


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