壁田城(長野県中野市) [古城めぐり(長野)]
←中間阻塞型の二重堀切
壁田城は、北信濃に侵攻した武田氏が、替佐城と共に北方の上杉氏の拠点飯山城に対峙する最前線の拠点として築いた城である。替佐城と共に、小幡上総介が城将となったとも言われるが、確証はない。小幡上総介と言えば国峰城主の小幡氏を思い浮かべるが、同一人物かは不明である。1566年に武田信玄が山田飛騨守・同左衛門尉にこの地を宛行なっていることから、山田氏が壁田城の守備に付いていたものと推測されている。
壁田城は、千曲川の曲流部に突き出た独立峰である、標高480m、比高145mの城山に築かれている。城内は公園として整備されており、城域のすぐ北の尾根まで車道が付いているので、訪城はたやすい。公園化されている分、やや遺構が破壊を受けているが、概ねの遺構は残っている。南北に伸びる尾根上に曲輪を連ね、曲輪間を堀切で分断した連郭式の縄張りを基本としている。山頂の主郭を中心に、北尾根に3つ、南尾根にも3つの曲輪を築いている。ほとんどの曲輪間は堀切で分断されており、特に北の3郭と4郭の間は中央に低い畝状の土塁が築かれた中間阻塞型の二重堀切になっており、青森や山形で見られるものと同形である。また主郭等には腰曲輪も築かれ、北の3郭の東斜面には畝状竪堀があるとされるが、熊笹藪でよくわからない。主郭の西尾根にも細尾根の曲輪と堀切が築かれているが、薮が多くて形状が分かりにくい。この他、南の尾根の先に腰曲輪群が築かれ、南東中腹には籠池と呼ばれる池があり、水の手曲輪になっていたらしい。この周辺にも櫓台状の土壇や堀切が見られる。壁田城は、縄張り的には少々面白味に欠け、技巧性も他の武田氏系城郭と比べると見劣りするが、堀切はいずれもそこそこの規模があり、見て損はない遺構である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.786415/138.343492/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
壁田城は、北信濃に侵攻した武田氏が、替佐城と共に北方の上杉氏の拠点飯山城に対峙する最前線の拠点として築いた城である。替佐城と共に、小幡上総介が城将となったとも言われるが、確証はない。小幡上総介と言えば国峰城主の小幡氏を思い浮かべるが、同一人物かは不明である。1566年に武田信玄が山田飛騨守・同左衛門尉にこの地を宛行なっていることから、山田氏が壁田城の守備に付いていたものと推測されている。
壁田城は、千曲川の曲流部に突き出た独立峰である、標高480m、比高145mの城山に築かれている。城内は公園として整備されており、城域のすぐ北の尾根まで車道が付いているので、訪城はたやすい。公園化されている分、やや遺構が破壊を受けているが、概ねの遺構は残っている。南北に伸びる尾根上に曲輪を連ね、曲輪間を堀切で分断した連郭式の縄張りを基本としている。山頂の主郭を中心に、北尾根に3つ、南尾根にも3つの曲輪を築いている。ほとんどの曲輪間は堀切で分断されており、特に北の3郭と4郭の間は中央に低い畝状の土塁が築かれた中間阻塞型の二重堀切になっており、青森や山形で見られるものと同形である。また主郭等には腰曲輪も築かれ、北の3郭の東斜面には畝状竪堀があるとされるが、熊笹藪でよくわからない。主郭の西尾根にも細尾根の曲輪と堀切が築かれているが、薮が多くて形状が分かりにくい。この他、南の尾根の先に腰曲輪群が築かれ、南東中腹には籠池と呼ばれる池があり、水の手曲輪になっていたらしい。この周辺にも櫓台状の土壇や堀切が見られる。壁田城は、縄張り的には少々面白味に欠け、技巧性も他の武田氏系城郭と比べると見劣りするが、堀切はいずれもそこそこの規模があり、見て損はない遺構である。
水の手曲輪の籠池→
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.786415/138.343492/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
コメント 0