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安源寺城(長野県中野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_5352.JPG←主郭南の堀切
 安源寺城は、高梨氏が築いたとされる城である。創築にはいくつかの伝承があるが、武田氏の侵攻によってこの地を逐われた高梨政頼の子頼親が、1582年の武田氏滅亡・織田信長の横死による織田領国の崩壊後に上杉景勝の命でこの地に戻り、安源寺城を築城したとされる。しかし、築城開始後間もなく、元の本拠地であった中野小館に戻ることができたため、築城途中で放棄されたと言う。或いは武田氏侵攻以前から高梨氏の一族がこの城にいたともされ、いずれが正しいかは不明である。『信濃の山城と館』の著者宮坂武男氏は、遺構を見る限り築城途中で放棄されたと言うのも案外当たっているかもしれないと書いている。

 安源寺城は、標高410m、比高50m程の丘陵上に築かれている。ここは中野市街地と千曲川の間に横たわる丘陵地の南端部に位置している。北西から南東に延びる長い丘陵上に、曲輪を直線状に連ねた連郭式の縄張りとなっている。南端の曲輪は墓地となっていて改変されているが、その他の曲輪は概ね良く残っている。しかし耕作放棄地らしく雑草の繁茂や倒木で曲輪内の踏査は困難である。この城に行ったのは5月の初めであったが、今年は暖かくなるのが早かったので雑草の伸びが早かったせいもあって、もう進入が困難になっていた。南の二ノ郭はただの方形の平場で、主郭との間に堀切が穿たれている。主郭は土塁で囲繞されたほぼ方形の曲輪で、主殿が置ける様な広さを有している。やはり雑草と倒木が凄いが、ここでは立派なカモシカを見かけた。また主郭の西側塁線はわずかに曲がり、横矢掛かりが見られる。主郭の北にも堀切が穿たれ、主郭の土塁は北辺と南辺の堀切沿いは高く盛られている。主郭の北は三ノ郭で、ただの広い平場が長く伸びている。主郭と三ノ郭との間の堀切東端・西端にはそれぞれ土橋が架かっているが、東のものは薮で全くわからない。三ノ郭は薮が少なく進入可能である。三ノ郭の北端に土塁と堀切が築かれ、その北にも平場が広がっている。所々に土塁が見られるが、途中で切れている部分が多く断片的であるが、一部はL字状となっている。しかし全体の形状ははっきりしない。この他、各曲輪の西側には帯曲輪が延々伸び、一部は横堀状となっている。東側にも帯曲輪がある様だが、三ノ郭の東以外は薮が多くて確認できない。
 安源寺城は、広大な城で居住性を持たせており、確かに伝承の通り居館的な性格の城だった様である。一方でしっかり土塁が築かれた主郭以外は防御が不十分で普請途中で放棄されたと言うのも首肯できる状態である。
主郭北辺の土塁→IMG_5378.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.743011/138.334951/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編

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  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/01/10
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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