大倉崎館(長野県飯山市) [古城めぐり(長野)]
←外周の空堀
大倉崎館は、上野の館跡とも呼ばれ、歴史不詳の城館である。伝承では竹内源内の居館とも言うが、詳細は不明。昭和63年に常磐大橋建設の為に行われた発掘調査の結果、多数の貴重な陶磁器が見つかったことから、14~5世紀頃に有力な豪族の居館であったと推測されている。またその多くが火を受けて溶変し、焼土や炭も多量に見つかっていることから、戦火に遭った城館であるらしい。戦国後期の甲越両軍の抗争期に水運を扼する要害であった可能性もあるだろう。
大倉崎館は、千曲川西岸に面した段丘端に築かれている。現在は南北に細長い長方形の城館となっているが、これは幾度もの氾濫で川岸が削られた為であろう。往時はもっと方形に近い形状であったと思われる。川に面した東側以外の三方を土塁と空堀で囲んだ構造で、中央部を東西に国道117号線が貫通して破壊を受けている。そのせいもあって、虎口は残っていない。北側半分だけは一応公園化されていて、辛うじて夏でも訪城は可能である。土塁と空堀は明瞭に残っているが、それ以外には目立った特徴のない、よくある単郭方形居館の一部である。それにしても貴重な遺構なのだから、全壊は免れたにしてもわざわざ遺構の中心に道路を建設しなくても良さそうなものだが、土建関係の役所の文化財に対する意識の低さはどうしようもない。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.902377/138.398026/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
大倉崎館は、上野の館跡とも呼ばれ、歴史不詳の城館である。伝承では竹内源内の居館とも言うが、詳細は不明。昭和63年に常磐大橋建設の為に行われた発掘調査の結果、多数の貴重な陶磁器が見つかったことから、14~5世紀頃に有力な豪族の居館であったと推測されている。またその多くが火を受けて溶変し、焼土や炭も多量に見つかっていることから、戦火に遭った城館であるらしい。戦国後期の甲越両軍の抗争期に水運を扼する要害であった可能性もあるだろう。
大倉崎館は、千曲川西岸に面した段丘端に築かれている。現在は南北に細長い長方形の城館となっているが、これは幾度もの氾濫で川岸が削られた為であろう。往時はもっと方形に近い形状であったと思われる。川に面した東側以外の三方を土塁と空堀で囲んだ構造で、中央部を東西に国道117号線が貫通して破壊を受けている。そのせいもあって、虎口は残っていない。北側半分だけは一応公園化されていて、辛うじて夏でも訪城は可能である。土塁と空堀は明瞭に残っているが、それ以外には目立った特徴のない、よくある単郭方形居館の一部である。それにしても貴重な遺構なのだから、全壊は免れたにしてもわざわざ遺構の中心に道路を建設しなくても良さそうなものだが、土建関係の役所の文化財に対する意識の低さはどうしようもない。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.902377/138.398026/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
コメント 0