植栗城(群馬県東吾妻町) [古城めぐり(群馬)]
←主郭西側の堀跡
植栗城は、この地の土豪植栗氏の居城である。岩櫃城を築いた吾妻太郎の一族とも言われる。応仁年間(1467~69年)には植栗安芸守が城主で、1468年に植栗安芸守の伯母婿柳沢直安が斎藤行弘に襲われ、この植栗城へ逃れたと言う。永享の乱の前後より斎藤氏の庶流大野氏の勢威が宗家を凌ぎ、岩櫃城に入城して吾妻郡を支配した。大野憲直は、植栗河内守元吉と諍いを起こし、同族の岩下城主斎藤憲次に植栗氏討伐を命じたが、憲次は返って大野氏に反逆し、岩櫃城を急襲して大野氏を滅ぼした。憲次はそのまま岩櫃城主となって吾妻郡を支配し、元吉は憲次に従った。1563年、武田信玄は上州侵略のため真田幸隆に命じて岩櫃城を攻撃したが、この時植栗安房守元信は斎藤方として戦った。斎藤氏没落後、植栗氏は真田氏に従った様で、長篠合戦では植栗河内が手傷を負ったと言う。
植栗城は、吾妻川南岸の段丘辺縁部に築かれている。畑地の中に三角形の主郭が一段高く残っている。主郭西側には堀跡が低地となって残っている。主郭南側は一面の水田になっているが、外郭があった可能性がある。その他には遺構はなく、ほぼ単郭の小規模な城である。主郭に城址標柱が立ち、主郭から南東にやや離れて植栗安芸守の石碑が残っている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.578661/138.865471/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
植栗城は、この地の土豪植栗氏の居城である。岩櫃城を築いた吾妻太郎の一族とも言われる。応仁年間(1467~69年)には植栗安芸守が城主で、1468年に植栗安芸守の伯母婿柳沢直安が斎藤行弘に襲われ、この植栗城へ逃れたと言う。永享の乱の前後より斎藤氏の庶流大野氏の勢威が宗家を凌ぎ、岩櫃城に入城して吾妻郡を支配した。大野憲直は、植栗河内守元吉と諍いを起こし、同族の岩下城主斎藤憲次に植栗氏討伐を命じたが、憲次は返って大野氏に反逆し、岩櫃城を急襲して大野氏を滅ぼした。憲次はそのまま岩櫃城主となって吾妻郡を支配し、元吉は憲次に従った。1563年、武田信玄は上州侵略のため真田幸隆に命じて岩櫃城を攻撃したが、この時植栗安房守元信は斎藤方として戦った。斎藤氏没落後、植栗氏は真田氏に従った様で、長篠合戦では植栗河内が手傷を負ったと言う。
植栗城は、吾妻川南岸の段丘辺縁部に築かれている。畑地の中に三角形の主郭が一段高く残っている。主郭西側には堀跡が低地となって残っている。主郭南側は一面の水田になっているが、外郭があった可能性がある。その他には遺構はなく、ほぼ単郭の小規模な城である。主郭に城址標柱が立ち、主郭から南東にやや離れて植栗安芸守の石碑が残っている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.578661/138.865471/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世崖端城
2019-03-25 02:00
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