勝山城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]
←解説板が建つ遊歩道
勝山城は、1371年に赤松氏が築いたと言われている。その後1427年、赤松能亮の時に関口へ改姓したとされる。戦国前期の1525年、関東管領山内上杉氏の重臣総社長尾氏の居城である総社要害城(蒼海城)の支城となり、関口清房が在城した。1566年に武田信玄の上州攻めにより、箕輪城主長野氏が滅ぼされると、勝山城も武田勢の攻撃によって落城、廃城となった。江戸時代に入り、総社領主となった秋元長朝が総社城を築くと、勝山城の故地はその一部に取り入れられた。現在勝山城の遺構は、勝山小学校の北西部に一部を残し、ほとんどが利根川の氾濫により崩落して消滅したと言う。
勝山城は、現地解説板によれば元景寺の北西側一帯にあったらしい。外郭外周は全長4kmにも及んでいたらしいが、今は改変され尽くしてしまい、どのような縄張りだったのかもよくわからない。解説板は利根川沿いの遊歩道脇に建っている。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.417087/139.039493/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
勝山城は、1371年に赤松氏が築いたと言われている。その後1427年、赤松能亮の時に関口へ改姓したとされる。戦国前期の1525年、関東管領山内上杉氏の重臣総社長尾氏の居城である総社要害城(蒼海城)の支城となり、関口清房が在城した。1566年に武田信玄の上州攻めにより、箕輪城主長野氏が滅ぼされると、勝山城も武田勢の攻撃によって落城、廃城となった。江戸時代に入り、総社領主となった秋元長朝が総社城を築くと、勝山城の故地はその一部に取り入れられた。現在勝山城の遺構は、勝山小学校の北西部に一部を残し、ほとんどが利根川の氾濫により崩落して消滅したと言う。
勝山城は、現地解説板によれば元景寺の北西側一帯にあったらしい。外郭外周は全長4kmにも及んでいたらしいが、今は改変され尽くしてしまい、どのような縄張りだったのかもよくわからない。解説板は利根川沿いの遊歩道脇に建っている。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.417087/139.039493/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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