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武鎗城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5838.JPG←主郭の切岸
 武鎗城は、葛西氏の家臣武鎗氏の歴代の居城と伝えられている。最初は平安末期の1189年頃に築かれたとされる。最後の城主武鎗典膳重信は、天文年間(1532~55年)以来、葛西晴胤・親信・晴信と葛西氏3代に仕えた勇将で、1579年に鶴丸城主富沢直綱が葛西氏に叛して磐井郡流庄へと侵攻した富沢兵乱において、主家の防壁として奮戦した。しかし1590年の豊臣秀吉の奥州仕置で葛西氏が改易された後、同年に生起した葛西大崎一揆に武鎗典膳も参陣し、一揆鎮圧後に伊達政宗が一揆の主だった者達を桃生郡須江山において謀略によって惨殺した「須江山の惨劇」で典膳も殺害された。

 武鎗城は、東館と西館で構成されたとされる。東館が主城で、標高59.6m、比高50m程の丘陵上に築かれている。城内を東西に通る車道の北側の段丘上が主郭で、一部が畑、大半が山林となっている。大きな切岸で囲まれ、南西部には横矢掛かりの塁線が内側に折れており、外周に腰曲輪を廻らしている。腰曲輪は西面では2段確認できる。主郭の北側は切岸が不明瞭な緩斜面となって、腰曲輪と繋がっている。主郭東の腰曲輪には給水施設があり、そこに標柱が立っており登道が付いている。また主郭の西側の民家の建つ高台や、その南の広場(小学校跡地)、主郭の南下方に広がる畑地も曲輪跡であったと考えられる。一方西館は、東館の西に連なる尾根に築かれた堡塁群で、3つのピークの内2つは安養寺の墓地となり改変されているが、周囲の山林内に腰曲輪が数段確認でき、城郭遺構であることは確実である。しかし一番西の3つ目のピークは薮がひどく進入不能である。同じ様な尾根が東館の北西にも連なっているので探索したが、こちらにはあまり明確な普請の形跡は見られず、城砦はなかった様である。武鎗城は、部分的に改変が進んでいるものの主郭部が健在で、往時の姿をよく残している。但しあまり技巧性はなく、曲輪群を連ねただけの縄張りだった様である。尚、『日本城郭大系』には、主郭北側に空堀があると記載されているが、実際には空堀は見られなかった。
主郭周囲の腰曲輪群→IMG_5837.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.803848/141.122925/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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