SSブログ

高浜の砦(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8800.JPG←北側の堀切
 高浜の砦は、箕輪城防衛の為に築かれた長野氏の支城である。守将は匂坂常陸介長信と伝えられる。長野氏の防衛の最前線は、雉郷城を中核とした中核とした秋間境の山嶺に置き、第2の防衛線を烏川北岸の段丘崖に沿った、高浜の砦を中心とした住吉城・七曲りの砦・神戸の砦・駒寄の砦のラインに置かれていたとされる。1566年に始まった武田信玄の箕輪城攻撃は、前哨戦としてまず雉郷城を、次いで高浜の砦への奇襲から開始された。安中松井田両城を攻略した信玄は、箕輪・鷹留両城間の防衛線を分断するため、那波無理之助宗安に高浜の砦への奇襲を命じた。宗安は、秋間の諸城に次いで雉郷城を突破して里見城に達し、更に烏川を渡河して不意に高浜の砦を攻撃した。時に守将匂坂長信は箕輪城にあって不在であり、小勢の砦は陥落した。宗安は砦に火を放って白岩へ進撃したが、箕輪から出撃した安藤九郎左衛門勝道と交戦し、激戦の末に勝道を討ち取ったが、続いて駆けつけた青柳金王・下田大膳らの援軍に敗れて退却した。翌日午後、武田勢の飯富・小宮山両氏の部隊が白岩に進出したことで箕輪・鷹留両城は分断され、孤立した鷹留城は落城した。この後、箕輪城を攻略し長野業盛を滅ぼした信玄は、高浜の砦に木暮但馬守を守将として配置したと言う。

 高浜の砦は、烏川北岸の標高180m、比高30mの段丘上に築かれている。西側は高浜川に削られた急崖に面しており、要害地形であることがよく分かる。砦内部は耕地と民家になっており、かなり改変されているため、内部がどの様な構造になっていたのかは現状からではわかりにくい。しかし北側の竹林の中には北辺の土塁と堀切がよく残っている。この堀切は、東半分は民家・畑となってほとんど湮滅しているが、僅かな窪地となっており、堀の名残を残している。また砦の東側を通る県道137号線は、かつての東の堀跡を通っており、道路の東側は低地となっている。以上が遺構の現状であるが、高浜の砦は要害地形とは言うものの、郭内はだだっ広い平場が広がっており、これだけ広いとある程度の兵数を籠めないと到底守りきれないだろう。箕輪・鷹留両城の間の防衛線であったと同時に、兵站拠点でもあったものだろうか。この砦の役割について少々考えさせられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.368533/138.925231/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


箕輪城と長野氏 (中世武士選書)

箕輪城と長野氏 (中世武士選書)

  • 作者: 近藤 義雄
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2010/12
  • メディア: 単行本


nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 6

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント