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桐生城(群馬県桐生市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_1361.JPG←南郭群の大竪堀
 桐生城は、柄杓山城とも言い、この地の豪族桐生氏の歴代の居城である。桐生氏は、渡良瀬川流域の諸豪に多く見られるのと同じく、秀郷流藤原氏の後裔である。その動向が明確になるのは南北朝時代からで、1350年に桐生国綱が桐生城を築いたと伝えられる。国綱は、家臣の谷直綱に命じて高津戸城主山田則之を滅ぼし、高津戸を支配下に置くなど、桐生氏発展の基礎を築いた。その後、この地を拠点に勢力を保ち、享徳の乱では上杉方として活躍した。その後、助綱が当主の時、周囲に勢力を拡大して最盛期を迎え、1560年に上杉謙信が関東に出馬すると、その元に参じた。助綱の死後は、同族の佐野氏から入嗣した親綱が後を継いだが、失政が多く家中は乱れ、民心が離反した。助綱が迎えた客将で厚い信任を受けていた仁田山城主の里見上総入道は親綱に諫言したが、返って讒言によって自害を命ぜられ、家中は益々乱れた。この事態を見た由良成繁は、1572年桐生城を攻撃して攻め落とし、親綱は実家の佐野へ逃れた。その後桐生城は由良氏の支城となり、1574年、成繁は金山城を嫡子国繁に譲り、自身は桐生城に移って善政を敷いた。1578年、成繁が没すると、桐生親綱は桐生城の奪還を計ったが失敗した。1582年に武田勝頼・織田信長が相次いで滅びると、北関東には小田原北条氏が大きく勢力を拡張し、由良国繁・足利長尾顕長兄弟も北条氏に屈し、国繁は北条氏の圧力により金山城を明け渡し、桐生城に退去した。1590年の小田原の役の際には、国繁は小田原城に籠城させられたが、その母妙印尼は嫡孫貞繁を伴って松井田陣の前田利家を訪れ、そのまま各地を転戦した。豊臣秀吉は、妙印尼の功を激賞し、国繁に常陸国牛久5千石、弟渡瀬繁詮に遠江国横須賀3万石を与えた。こうして由良氏が牛久城に移ると、桐生城は廃城となった。

 桐生城は、標高361.1m、比高220m程の城山に築かれている。公園として整備されており、登山道も整備されているので訪城は比較的楽である。私は城の北西まで伸びる林道を車で登り、車道の終点からハイキングコースを城まで歩いた。想像していたより普請の規模が大きい城で、主郭・ニノ郭・三ノ郭に穿たれた堀切はいずれも深さ3~4m程もある。東端から順に主郭・ニノ郭・三ノ郭と並べた連郭式を基本とし、二ノ郭の北の支尾根に北郭群、三ノや郭の南の支尾根に南郭群を置いている。北郭群では堀切の他に桝形虎口や土塁囲郭が築かれている。南郭群では大竪堀や横堀が穿たれている。また主郭とニノ郭は、それぞれ後部に円弧状横堀を穿って備えを固めている。この他、主郭の東と南東の尾根に段曲輪群が築かれ、南東の尾根の下方には堀切・土橋の先に坂中郭という出曲輪がある。基本的に戦国後期のセオリー通りの整った縄張りを有しており、見応えがある。
主郭後部の円弧状横堀→IMG_1476.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.445331/139.358053/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本



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