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五覧田城(群馬県みどり市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2323.JPG←北郭群の堀切
 五覧田城は、深沢城と並ぶ黒川谷の重要城郭で、争奪の場となった城である。元々、室町中期頃迄は深沢城主阿久沢氏らの黒川郷士は独立した武士団となっていたらしく、この地にはその中の一人、松島氏が築いた崖端城の五覧田の砦があったらしい。しかし桐生氏が黒川谷に進出すると黒川郷士は桐生氏に服属し、桐生氏が滅亡すると、金山城の由良氏の勢力下に入った。この頃由良氏は小田原北条方で、越相同盟が破れたため、1574年、上杉謙信は深沢城と共に五覧田城を攻略したが、翌75年には由良氏によって五覧田城は奪回された。1579年には、北条氏政は由良国繁と協定を結び、深沢城と五覧田城は由良国繁に預け置かれた。しかし1584年、由良氏が北条氏から離反し、それを契機に佐竹・宇都宮両氏を主軸とする北関東連合軍と北条の大軍が下野国沼尻で110日間に渡って対峙した時には、北条氏は阿久沢氏を調略して敵勢の切り崩しを図り、阿久沢・前原・目黒氏ら在地衆に命じて五覧田城を攻略した。その際北条氏直は深沢城主阿久沢彦二郎の戦功を賞し、北条氏照は彦二郎に五覧田城の普請を命じた。従って、現在残る五覧田城の遺構は、北条氏の命で阿久沢氏が改修した姿である。以後、北条氏と対立する沼田方面の真田氏と佐竹氏・宇都宮氏ら北関東諸豪との連絡路(根利通)を遮断するため、引き続き重視されたと推測される。

 五覧田城は、標高593.1m、比高293mの要害山に築かれている。麓からまともに登ったら大変な高さだが、幸い標高520m付近まで林道が付いており、そこまで車で登れるので、訪城は容易である。五覧田城は、T字状になった尾根に曲輪群を築いた、連郭式の細尾根城郭で、堀切で要所を分断しているいるが、縄張りは基本的に古風なものである。三角点のある山頂に主郭を置き、三方に伸びる尾根にそれぞれ東郭群・北郭群・西郭群を築き、各尾根筋をそれぞれ数本の堀切で分断している。しかし堀切の規模はあまり大きくはなく、細尾根という地勢の制約もあってか、技巧性も見られない。普請も割と大雑把で、綺麗に削平された感じではない。この他、『日本城郭大系』の縄張図にはないが、東郭群の先に東出曲輪があり、その途中に堀切が穿たれている。この堀切の南側は円弧状の横堀となり、先端で直角に折れて竪堀となって落ちている。また東郭から北西に伸びる尾根にも段曲輪群と堀切・竪堀が確認できる。史料に残る重要性に比すると、貧弱な縄張りの城で少々期待外れであるが、沼田方面への間道を押さえる高所の要害としては、これで十分だったのだろう。また桐生城の様に整備された城を期待していたが、東郭群以外は薮がちょっと多いのも少々残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.518932/139.290204/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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