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波佐谷城(石川県小松市) [古城めぐり(石川)]

IMG_4027.JPG←土塁で囲まれた主郭
 波佐谷城は、一向一揆の部将、宇津呂丹波が築いたと言われる。元々この地には、山田光教寺・若松本泉寺と並んで「加州三ヵ寺」「三山の大坊主」と呼ばれた波佐谷松岡寺があり、1531年の享禄の錯乱で松岡寺が焼亡した後に築城されたと考えられている。前述の三ヵ寺は、本願寺の法主蓮如の血をひく一家衆寺院で、加賀一向一揆を率いる大坊であった。波佐谷松岡寺は蓮如の3男蓮綱の創建で、その子蓮慶が当地に移したと言われる。1531年、一向宗徒の内紛によって越前の和田本覚寺・藤島超勝寺らの大一揆(それに対して松岡寺ら一家衆方は小一揆と称される)に夜討ちされ、道慶とその子実慶らは自害し、実慶の子顕慶は乳母に抱かれて能登の松波へ 逃れた。これが享禄の錯乱である。その後に築かれた波佐谷城は、加賀一向一揆の城砦の一として機能したが、1580年、織田信長の家臣柴田勝家の攻撃で陥落し、字津呂丹波・藤六父子は討死した。その後信長は、家臣村上頼勝を小松城に6万6千石で封じ、頼勝は一族の村上勝左衛門を波佐谷城に置いたとされる。頼勝は1598年に越後本庄城へ転封となっており、この頃までに波佐谷城も廃されていたと推測されている。

 波佐谷城は、大杉谷川東岸の標高90m、比高55mの丘陵上に築かれている。いくつもの谷が深く入り込んだ丘陵地で、北西端の平地に松岡寺があったらしい。ここは広い平場が広がっているだけで、明確な遺構はない。松岡寺跡の東に、磯前神社から登ってくる切り通し道(谷)を挟んで出砦がある。西辺に土塁や櫓台らしい土盛りが見られるが、遺構はそれだけである。ここから小道を東に向かうと大きな谷を渡って東側の丘陵地に至り、ここを南東に登っていくと本城に至る。本城は、1/4円形状の主郭と周囲の腰曲輪1段で構成されている。主郭は外周に土塁を廻らし、南西角に櫓台を築き、櫓台は横矢の張り出しとなっている。櫓台の内側には井戸跡らしい窪みがある。主郭の北と西面は腰曲輪との間に横堀が穿たれている。腰曲輪の北部には桝形虎口が設けられ、そこに至る尾根筋の登城道の脇には竪堀が長く穿たれ、枡形の脇まで穿たれている。また本城の西側にも大きな竪堀が穿たれ、竪堀の最上部は土橋が架かり、西の丘陵と区画している。本城から北西に下った丘陵先端部には出丸が設けられている。東の上段郭と西の下段郭と2郭で構成され、北面以外には土塁が設けられている。また北側斜面には腰曲輪が設けられ、背後の尾根には二重堀切を穿っている。波佐谷城は、松岡寺を含めた広大な城であるが、独立した曲輪群が散在しており、あまり求心性のない縄張りとなっている。
 尚、城への正規の登り口は非常にわかりにくく、磯前神社脇から登る迂回ルートの方がわかりやすい。また丘陵内には一応の散策路が整備されており、本城の主郭だけは整備されている。
本城の桝形虎口→IMG_3982.JPG
IMG_4003.JPG←本城西の竪堀
出丸の二重堀切の内堀→IMG_4066.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【本城】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.340848/136.484764/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【出丸】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.342508/136.483562/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【出砦】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.341955/136.482146/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【松岡寺跡】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.341453/136.481459/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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