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荒山城(石川県中能登町) [古城めぐり(石川)]

IMG_6023.JPG←二ノ郭から見た主郭
 荒山城は、荒山砦とも言い、石動山衆徒と織田勢が戦った荒山合戦の舞台となった城である。元々は、1577年に七尾城主能登畠山氏が、上杉謙信の侵攻に備える為に築いたと言われている。謙信は七尾城を攻略すると、荒山城にも守将を配置した。1582年6月、本能寺の変で織田信長が横死すると、石動山衆徒は寺領の奪回を目指して越後の上杉景勝に支援を求め、信長の部将前田利家を討とうと動き出した。そして畠山氏旧臣の温井備中守景勝・三宅備後守長盛と共に、荒山砦に立て籠った。利家は、柴田勝家と佐久間盛政に加勢を頼み、佐久間勢が2500の兵で山麓の高畠に着陣すると、利家は長連龍を七尾口へ向かわせ、自身は3000の兵を率いて柴峠に出陣し、宗徒側の軍勢の分断を図った。宗徒側は荒山城の出城を構築している途中で、前田勢は温井・三宅軍を急襲し、これを破った勢いに乗じて荒山城を攻め落とし、阿弥陀院俊慶・大和坊覚笑ら多数の宗徒が討死した。これを荒山合戦と言う。この合戦に勝利した前田勢は、翌日石動山院に攻め入り、一山に火を放った。こうして栄華を誇った石動山寺坊約300坊の堂塔伽藍はことごとく焼き尽くされた。

 荒山城は、標高486mの桝形山に築かれている。かなり高所に位置しているので、360度の眺望に優れる、まさに天空の城である。富山湾まで一望でき、立山連峰も見渡すことができる。山頂に台形状の主郭を置き、東面以外の外周に腰曲輪状の二ノ郭を廻らし、更に北尾根・北西斜面・東尾根に段曲輪群・腰曲輪群を築いている。特に北尾根の段曲輪群はそれぞれの曲輪の面積が大きく、曲輪の数も多い。城内通路を兼ねたと思しき小堀切も確認できる。北西斜面の曲輪群の中に竪堀の様な溝地形も見られる。しかし全体的には、基本的には堀はあまり構築されておらず、尾根や斜面に曲輪群を連ねた多段式の山城であった様である。現在は公園として整備されており、近くまで車道が伸び、遊歩道も整備されているので、訪城はたやすい。但し、主郭周辺と北西斜面以外は薮である。
 尚、石動山に繋がる東尾根にも堀切や折れを伴う通路などがあるらしいが、薮が多く見逃した。
北西斜面の腰曲輪→IMG_6014.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.954710/136.944945/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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