富木城(石川県志賀町) [古城めぐり(石川)]
←城跡の現況
富木(とぎ)城は、富来城とも記載され、上杉勢、織田勢が相次いで領したと言う城である。木尾嶽城の歴史に出てくるが、南北朝時代に富来俊行と言う武士がおり、この地域で活動しているので、富木城と関係していていた可能性がある。時代は降って1576年、上杉謙信は能登に侵攻して七尾城を攻めたが容易に落ちず、長期攻囲戦のため能登一円の城を占領して部将を配置した。富木城には藍浦長門が城将として配された。しかし小田原北条氏の軍勢が越後に侵攻するとの急報を受けて、謙信は一部の軍勢を残して一旦引き上げた為、七尾城の畠山勢は攻撃に転じ、富木城には誉田弾正・長十郎右衛門・杉原和泉・藤尾左近らが攻め寄せ、城将藍浦長門は自刃し、城は落城した。その後、謙信はすぐに能登に再侵攻し、ようやく七尾城を攻略し、能登は上杉勢に平定された。しかしこの歴史は富木城の近くにある木尾嶽城のものと全く同じであるので、両城の歴史が混同されたものか、それも2城が一体となって機能した別城一郭の城であったのか、どちらかであろうと思うが詳細はわからない。1581年に織田勢が能登を制圧すると、菅原館に前田利家、七尾城に菅屋長頼、そして富木城には福富行清が配された。しかしわずか5ヶ月後には、毛利攻めの進展に備えて菅屋・福富両名は信長の元に呼び戻され、能登は前田利家の領するところとなった。
富木城は、標高22m、比高わずか15m程の低丘陵に築かれている。しかし江戸後期には既に開墾により遺構は湮滅していたということで、現在も畑地や薮となってるだけで明確な遺構は見られない。残っているのは地形だけという、残念な状況である。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.150551/136.741827/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
富木(とぎ)城は、富来城とも記載され、上杉勢、織田勢が相次いで領したと言う城である。木尾嶽城の歴史に出てくるが、南北朝時代に富来俊行と言う武士がおり、この地域で活動しているので、富木城と関係していていた可能性がある。時代は降って1576年、上杉謙信は能登に侵攻して七尾城を攻めたが容易に落ちず、長期攻囲戦のため能登一円の城を占領して部将を配置した。富木城には藍浦長門が城将として配された。しかし小田原北条氏の軍勢が越後に侵攻するとの急報を受けて、謙信は一部の軍勢を残して一旦引き上げた為、七尾城の畠山勢は攻撃に転じ、富木城には誉田弾正・長十郎右衛門・杉原和泉・藤尾左近らが攻め寄せ、城将藍浦長門は自刃し、城は落城した。その後、謙信はすぐに能登に再侵攻し、ようやく七尾城を攻略し、能登は上杉勢に平定された。しかしこの歴史は富木城の近くにある木尾嶽城のものと全く同じであるので、両城の歴史が混同されたものか、それも2城が一体となって機能した別城一郭の城であったのか、どちらかであろうと思うが詳細はわからない。1581年に織田勢が能登を制圧すると、菅原館に前田利家、七尾城に菅屋長頼、そして富木城には福富行清が配された。しかしわずか5ヶ月後には、毛利攻めの進展に備えて菅屋・福富両名は信長の元に呼び戻され、能登は前田利家の領するところとなった。
富木城は、標高22m、比高わずか15m程の低丘陵に築かれている。しかし江戸後期には既に開墾により遺構は湮滅していたということで、現在も畑地や薮となってるだけで明確な遺構は見られない。残っているのは地形だけという、残念な状況である。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.150551/136.741827/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世平山城
コメント 0