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西谷内城(石川県七尾市) [古城めぐり(石川)]

IMG_6643.JPG←三ノ郭虎口脇の張出しと水堀
 西谷内城は、西ヶ谷城とも言い、七尾城主畠山氏の家臣国分氏の居城である。一説には能登畠山氏の同族畠山家継(西谷内畠山氏)が在城したともされるが詳細は不明。天授年間(1375~81年)に、能登守護となった畠山氏によって西谷内の地頭として国分氏が置かれ、1430年に西谷内城が完成したと言う。その後、長綱連の家臣となった国分五郎兵衛が居城し、綱連に従って七尾城で上杉勢と戦った。藤津比古神社の1576年の棟札には「国分備前守慶胤」の名があると言い、これが五郎兵衛のことであろうか?またその名乗りから、西谷内国分氏は下総の名族千葉氏の庶流国分氏の流れであることが推測される。能登が前田利家の領国となるとその家臣となったらしく、1600年の前田利長による大聖寺城攻略の際に五郎兵衛は討死したと言う。但し、現在残る西谷内城の規模から考えると、一介の国人領主である国分氏の城ではなく、西谷内畠山氏の持城で、その城代として国分氏が置かれたとの説も提唱されている様だ。

 西谷内城は、比高30m程の丘陵地に築かれている。南に向かって緩やかに傾斜した土地全体を城域としており、城としては大型の部類に入る。大きく4つの曲輪群から構成された梯郭式の縄張りで、最上部に主郭、その下に二ノ郭群、更に南下方に三ノ郭群・四ノ郭群・外郭が置かれている。それぞれの曲輪群は、細かい段差で区切られた多くの平場で構成されている。主郭は2段の平場で構成され、上段は妙見堂跡とされ、西谷内国分氏が千葉氏の流れを汲む一族であった(少なくとも当時そう称していたであろう)ことがわかる。主郭と二ノ郭群の間は段差だけで区切られている。二ノ郭群は外周を方形に空堀と土塁で囲み南東角には櫓台を備えている。主郭虎口の手前に、城内通路に沿って土壇があり、小さな石積みが見られる。二ノ郭群内部はいくつかの平場に分かれるが、起伏が多く、形が判然としない。二ノ郭群の南の三ノ郭群は全体として半月形の形状で、やはり外周を土塁と堀で囲んでいる。中央に築かれた虎口の西側の堀は、比較的規模が大きく高低差もあり、虎口に対して横矢の張出しを設け、湧水があるらしく水堀となっている。一方、虎口の東側の堀は空堀で、規模も比較的小さい。三ノ郭群の東部にはいくつかの張出しが設けられ、その一部にはわずかな石垣跡が残っている。四ノ郭群は、中央に築かれた虎口が枡形虎口となっており、その東側に比較的幅の広い空堀が穿たれている。虎口両側には土塁が伸び、下方の外郭を見下ろせるようになっている。外郭は、内部に起伏が多い粗雑な作りであるが、内部に空堀が穿たれ、物見台らしい土壇も見られる。
 西谷内城は、城域は広いが、全体に起伏の多いざっくりした構成の城である。またかなり緩い傾斜地の城のため、堀と多数の曲輪群で防御を固めていたと見られる。雨降り後でもあったせいか、城内には湧水が多く、水には困らなかったことが想像される。解説板や遊歩道が整備されており、ある程度薮払いもされているので、訪城はしやすい。
主郭の妙見堂跡→IMG_6723.JPG
IMG_6767.JPG←四ノ郭の枡形虎口

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.161676/136.812487/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の城の一生: つくる・壊す・蘇る (歴史文化ライブラリー)

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