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松波城(石川県能登町) [古城めぐり(石川)]

IMG_7770.JPG←景勝台西側の堀切
 松波城は、能登守護畠山氏の庶流松波畠山氏の居城である。1474年に能登畠山氏3代義統の3男義智が北能登の支配拠点として松波に入部し、松波城を築いたと言われる。以後6代、100余年にわたって松波一帯3800余貫を領した。松波畠山氏は代々常陸介を称し、5代義龍の時から松波氏を称した。1577年6月、七尾城から上杉謙信来攻の急報を受け、松波義親は家臣の生森長右衛門を城代として残し、自身は七尾城に向かって立て籠もった。しかし同年9月には遊佐続光の上杉方への内応により七尾城落城が免れ難いことを知り、弟丹波守義行・部将神保周防・河野肥前・熊木兵部らを引き連れて七尾城を脱出して松波城に戻った。攻め寄せた謙信の部将長沢筑前光国率いる700~1000余人の軍と激しい籠城戦を展開し、神保・熊木両名は討死し、義親も負傷したため自刃した。こうして松波城は上杉軍に攻略された。尚、義親の子連親は越後に母といたため無事で、長連龍に仕え、その子孫は加賀八家と呼ばれる加賀前田藩の重臣の一、長家の家臣として存続した。

 松波城は、松波漁港を間近に望む標高25mの丘陵東端部に築かれている。現在は解体されてなくなっているが、以前は主郭跡とされる平場に武道館が建っていたらしい。武道館建設時の改変・湮滅もあるのか、主郭背後に当たる西側には土塁・堀切などが見られず、どこまでが城域であったのか判然としない。主郭部分では、その東辺に石積みを伴った土塁が残っているのが唯一の明確な遺構と思われるが、これも中世の遺構にしては形が整いすぎており本当に遺構か疑問に思うところもある。主郭の東側には北に張り出した平場があり、その南東がニノ郭とされるが、ここもただの平場である。ただ外周には腰曲輪らしい平場が数段見られるので、曲輪であったことは間違いないのだろう。二ノ郭の東下方が三ノ郭とされ、ここに庭園遺構が発掘されているが、現在はブルーシートで覆われている(もう何年も前から同じ状態らしい)。三ノ郭東端には大手門跡の石碑が立っている。この東は堀切があったと思われるが、かつてのと鉄道が通っており(現在は廃線)、線路敷設のため大きく削られてしまったので、往時の規模は不明である。三ノ郭の北側には、この堀切沿いに土塁で囲まれた物見台の様な小郭がある。堀切の東側には、2つの高台(曲輪)が堀切を介して並んでおり、この城域先端部付近だけは城跡らしさが残っている。東側の先端郭が景勝台と呼ばれ、また「音川亭(鳳祥斎)址」の碑が立っている。ここも発掘調査中の様な感じだが、ブルーシートも掛けられず野晒しになっている。先端の2郭の周りには腰曲輪が築かれ、景勝台の北側には規模は小さいが横堀と土塁が築かれている。以上が遺構の状況で、松波城は守護家の一族の城であった割には縄張りがあまりにざっくりしすぎており、縄張りがよくわからない城というのが正直なところで、残念である。また発掘調査中のところは長年放置されているようなので、今後どうしていくつもりなのか、現状を見る限り不安を感じてしまう。
庭園跡の現況→IMG_7752.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.355132/137.238507/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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