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正院川尻城(石川県珠洲市) [古城めぐり(石川)]

IMG_8111.JPG←五ノ郭北西部の切岸
 正院川尻城は、上杉謙信の家臣で穴水城主長氏の庶流、長景連が拠点とした城である。長氏は、源平争乱期(治承・寿永の乱)に勇名を馳せて鎌倉幕府の御家人に列した長谷部信連を祖とする。信連は、源頼朝から能登国大屋荘を賜り、能登に入部した。その後、長谷部を長に改め、能登の有力国人となり、その子孫は能登各地に勢力を広げた。鎌倉時代後期には正院周辺は庶流の長川尻氏が領するようになり、その支配拠点として川尻氏によって正院川尻城が築かれたと推測されている。1576年、上杉謙信は能登に侵攻し、翌77年に七尾城を攻略して能登全域を制圧した。謙信の家臣長景連はこの戦いの中で川尻城を攻略し、川尻氏は没落した。景連は、珠洲郡支配の拠点としてそのまま川尻城に在城した。景連は、長氏の庶流長連之の子孫で、この一族は長氏家中の内訌によって、上杉家を頼って越後に落ち延びたものらしい。越後黒滝に住んだので黒滝長氏と称される。1578年に謙信が急死して上杉氏の勢力が減退すると、1579年には織田信長の勢力が能登を圧し、能登畠山氏の旧臣温井景隆・三宅長盛らによって七尾城将鯵坂長実が追放されると、能登各地の上杉氏勢力は駆逐されていった。景連は鹿野の浜の合戦で温井勢に敗れ、越後に撤退した。1582年、景連は兵船を率いて再び奥能登に攻め込んで、棚木城を攻略して立て籠もったが、織田信長の部将前田利家の与力となっていた長氏嫡流の長連龍に撃退され、川尻まで逃げてきたところで百姓の襲撃に遭って討ち取られたと伝えられる。これ以後、川尻城は廃城となったと考えられる。

 正院川尻城は、正院町東側の標高34mの台地上に築かれている。拠点城郭らしく、城域は広大で、台地上に広く曲輪が分布している。城へは登り口が幾つかある様だが、一番わかり易いのは城の南にある「うじま公園」の西側駐車場(城址解説板はこの脇にある)からまっすぐ北に向かったところで、県道脇に登り口の小さな標識が出ている。解説板の縄張図によれば、台地の南西角にニノ郭、その東に主郭、これらの北に横長の三ノ郭、その東に四ノ郭、三ノ郭の北に五ノ郭が配置され、それぞれの曲輪は空堀で分断され、更に腰曲輪を各所に配置した縄張りとなっている。一応、登り口から主郭まで散策路があるが、現在城内は1/3ほどが畑、残りは山林や薮(一部は耕作放棄地)に覆われている。畑地等になったため改変が進んでいる部分も多く、空堀も明確なのは山林の中にある一部であり、畑地の中の堀は埋められたのか、かなり浅くなってしまっている。空堀は基本的に直線形で、横矢掛りの張出しは三ノ郭の南辺など一部に設けられているだけである。城内で一番薮がひどいのはニノ郭で、南西角にある櫓台まで辿り着くのが大変だった。この他、二ノ郭南と三ノ郭北西の腰曲輪西側に切通し状の虎口が確認できた。城の南東からの登り口付近も虎口とされ、ここも切通し状になっているので、どうやらこの城は、虎口を切り通しにして狭めることで、敵の侵入を防ぐ構造だったらしい。この他にも、北西にやや離れた独立丘にも出丸があるらしいが、時間の関係で省略した。正院川尻城は大きな城ではあるが、遺構面では目立った特色がなく、薮に埋もれているせいもあって少々見劣りするのが残念である。
三ノ郭~四ノ郭間の空堀→IMG_8092.JPG
IMG_8107.JPG←三ノ郭腰曲輪の切通し状虎口

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.444318/137.300069/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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