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茂呂城(群馬県伊勢崎市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_8530.JPG←三ノ郭北の堀跡の川
 茂呂城は、この地の豪族那波氏の支城である。『日本城郭大系』ではその創築を永禄年間(1558~70年)としているが、主郭にある退魔寺の寺伝によれば、南北朝期の1371年に茂呂城主茂呂勘解由左衛門尉義輝が城内の光円坊を改め香華院を創立したのが退魔寺の始まりということなので、茂呂氏が南北朝期には茂呂城を築いて居城としていたらしい。茂呂氏の事績は不明であるが、戦国時代には那波氏の家臣となっていたのであろう。1560年、上杉謙信は初めて越山して関東に出馬し、北条方の那波宗俊を攻撃して没落させた。那波領は上杉氏によって金山城主由良成繁に与えられ、その家臣根岸三河が茂呂城に在城した。1584年、由良氏・足利長尾氏が小田原北条氏から離反すると、旧那波領は由良勢の攻撃を受けたが、北条方の那和顕宗は茂呂城と堀口城(那波城)を固守し、奮戦して由良勢を撃退したと言う。1590年、北条氏が滅亡すると廃城となった。

 茂呂城は、広瀬川東岸の段丘上に築かれている。前述の通り、主郭には現在退魔寺が建っている。境内には茂呂城と書かれた標柱があるが、土塁や堀等の遺構は確認できない。主郭の周囲には広瀬川に面した西側以外の三方に二ノ郭が巡っていたらしいが、これも現在は宅地化されて遺構は湮滅している。二ノ郭の北に三角形状の三ノ郭があったとされ、その北側の堀は現在も深い小川が流れている。三ノ郭の北西に北郭があり、宅地・畑のほか、一部が竹林となっており、竹林の中に北郭の土塁らしいものが見受けられるが、形状がはっきりせず遺構なのかどうか確信が持てない。この他、城の東側に大きく外郭が広がっていたらしく、その東側の堀跡が水路として残っている。以上のように、茂呂城は遺構がほとんど湮滅しており、ほとんど城らしい姿を残していないのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.303557/139.202592/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世崖端城
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