川井城(群馬県玉村町) [古城めぐり(群馬)]
←主郭櫓台跡の八千戈神社
川井城は、烏川対岸にある金窪城の支城である。金窪城主斎藤定盛の弟・石見守基盛が在城したとされる。定盛・基盛の兄弟は、治承・寿永の乱(源平合戦)の際に加賀国篠原で木曽義仲の軍勢と戦って壮絶な戦死を遂げた斎藤別当実盛の末裔とされる。戦国末期には、小田原北条氏に属し、1582年の神流川合戦の際には、滝川一益の軍勢の攻撃を受け、落城した。その後、箕輪城主長野氏の家臣清水内記邦正が定盛の長女を娶り、この地を譲り受けたと言う。
川井城は、滝川北岸の段丘上に築かれている。『日本城郭大系』の縄張図によれば、往時は4つの曲輪から成る城だったようだが、現在は城の西から南にかけては堤防建設で失われ、その他の部分も宅地化で遺構はほぼ湮滅している。唯一主郭の櫓台が、八千戈神社が祀られた高台となって現存しているだけである。また前述の縄張図には記載されていないが、昭和30年代の航空写真を見ると、城の北東側にも大きな方形の外郭があった様に見受けられる。それは、北辺と東辺に堀跡の様な低い水田が写真に写っているからである。しかしそれも現在では耕地整理で失われているので、実際にどうであったのかは現在では知るすべもない。櫓台跡に城の解説板があるのだけが、せめてもの救いである。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.285571/139.139829/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
川井城は、烏川対岸にある金窪城の支城である。金窪城主斎藤定盛の弟・石見守基盛が在城したとされる。定盛・基盛の兄弟は、治承・寿永の乱(源平合戦)の際に加賀国篠原で木曽義仲の軍勢と戦って壮絶な戦死を遂げた斎藤別当実盛の末裔とされる。戦国末期には、小田原北条氏に属し、1582年の神流川合戦の際には、滝川一益の軍勢の攻撃を受け、落城した。その後、箕輪城主長野氏の家臣清水内記邦正が定盛の長女を娶り、この地を譲り受けたと言う。
川井城は、滝川北岸の段丘上に築かれている。『日本城郭大系』の縄張図によれば、往時は4つの曲輪から成る城だったようだが、現在は城の西から南にかけては堤防建設で失われ、その他の部分も宅地化で遺構はほぼ湮滅している。唯一主郭の櫓台が、八千戈神社が祀られた高台となって現存しているだけである。また前述の縄張図には記載されていないが、昭和30年代の航空写真を見ると、城の北東側にも大きな方形の外郭があった様に見受けられる。それは、北辺と東辺に堀跡の様な低い水田が写真に写っているからである。しかしそれも現在では耕地整理で失われているので、実際にどうであったのかは現在では知るすべもない。櫓台跡に城の解説板があるのだけが、せめてもの救いである。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.285571/139.139829/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世平城
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