榎下城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]
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榎下城は、安中伊賀守忠清の居城である。忠清は松井田西城主安中忠親の弟で、1525年に榎下城を築いて居城としていた。忠親が死ぬと、忠清が跡を継いで当主となった。忠清の後はその子忠政が家督を継ぎ、引き続き榎下城を居城としたが、1559年に安中城を新たに築いて嫡子忠成を置いて守らせ、忠政は松井田城に入って城を強化し、信玄の侵攻に備えたと言う。
榎下城は、現在久昌寺の境内となっている。台地北縁部に築かれた、回字状に二重の堀で囲まれた城だったらしいが、現在はかなりの遺構が失われている。寺の背後に当たる北側から西側の墓地裏にかけて、堀と土塁が残っているだけである。しかし、北辺は二重の空堀がはっきりと残っていて、往時の雰囲気をよく残している。西側の墓地もよく見ると段差があって、堀跡の痕跡を残している。それにしても、この様に台地辺縁部に二重空堀で囲まれた居館を築く例は珍しい。尚、久昌寺の墓地には安中忠清の墓が建っている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.319257/138.861651/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
榎下城は、安中伊賀守忠清の居城である。忠清は松井田西城主安中忠親の弟で、1525年に榎下城を築いて居城としていた。忠親が死ぬと、忠清が跡を継いで当主となった。忠清の後はその子忠政が家督を継ぎ、引き続き榎下城を居城としたが、1559年に安中城を新たに築いて嫡子忠成を置いて守らせ、忠政は松井田城に入って城を強化し、信玄の侵攻に備えたと言う。
榎下城は、現在久昌寺の境内となっている。台地北縁部に築かれた、回字状に二重の堀で囲まれた城だったらしいが、現在はかなりの遺構が失われている。寺の背後に当たる北側から西側の墓地裏にかけて、堀と土塁が残っているだけである。しかし、北辺は二重の空堀がはっきりと残っていて、往時の雰囲気をよく残している。西側の墓地もよく見ると段差があって、堀跡の痕跡を残している。それにしても、この様に台地辺縁部に二重空堀で囲まれた居館を築く例は珍しい。尚、久昌寺の墓地には安中忠清の墓が建っている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.319257/138.861651/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世崖端城
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