住吉城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]
←城址石碑
住吉城は、仲村城とも言い、箕輪城主長野氏の支城である。烏川渡河点を押さえる要衝の地にあり、住吉玄蕃が築城したと伝えられる。1561年に武田信玄が西上州に侵攻した際には、長野業政は清水小内記正智を城主としてこの城を守らせた。1565年7月、上杉謙信が小幡・安中の奪還を図って出撃した際には、箕輪勢は住吉城を拠点とし、上杉方の先鋒となって武田勢の殿軍に肉迫し、若田原で激戦を交えたと言う。
住吉城は、烏川と榛名白川の合流点近くに築かれている。現在は榛名白川の西側にあるが、榛名白川は戦後の河川改修で流路が大きく付け替えられており、改修以前は榛名白川の東側に位置していた。従って、周辺の地形は大きく改変されてしまっているので、現状から城の縄張りを推測するのは困難である。ただ、城の北側には東西に水路が流れ(この水路も近代に改修されている様である)、堤防脇のスナックの前に城址石碑が建てられているのみである。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.357094/138.955743/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
住吉城は、仲村城とも言い、箕輪城主長野氏の支城である。烏川渡河点を押さえる要衝の地にあり、住吉玄蕃が築城したと伝えられる。1561年に武田信玄が西上州に侵攻した際には、長野業政は清水小内記正智を城主としてこの城を守らせた。1565年7月、上杉謙信が小幡・安中の奪還を図って出撃した際には、箕輪勢は住吉城を拠点とし、上杉方の先鋒となって武田勢の殿軍に肉迫し、若田原で激戦を交えたと言う。
住吉城は、烏川と榛名白川の合流点近くに築かれている。現在は榛名白川の西側にあるが、榛名白川は戦後の河川改修で流路が大きく付け替えられており、改修以前は榛名白川の東側に位置していた。従って、周辺の地形は大きく改変されてしまっているので、現状から城の縄張りを推測するのは困難である。ただ、城の北側には東西に水路が流れ(この水路も近代に改修されている様である)、堤防脇のスナックの前に城址石碑が建てられているのみである。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.357094/138.955743/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
コメント 0