田鶴浜館(石川県七尾市) [古城めぐり(石川)]
←境内に残る土塁
田鶴浜館は、七尾城主能登畠山氏の家臣から前田利家の与力となった長連龍の居館である。連龍の事績については穴水城の項に記載する。織田軍の尖兵となって能登で奮戦した連龍は、1580年に信長より鹿島半郡を与えられ、福水城を居城とすることを認められた。次いで徳丸城に居城を移し、その後田鶴浜館を築館して居住したとされる。この地は、元は能登畠山氏の家臣天野加賀守が居住したところであったらしい。連龍の田鶴浜館への移動は、通説では1606年とされているが、佐伯哲也氏は『能登中世城郭図面集』の中で疑問を呈しており、前後の状況から1582年頃まで遡るとの説を提示している。いずれにしても、以後長氏相伝の居館となり、1671年尚連の時に金沢城下に居所を移し、田鶴浜館は廃館となった。
田鶴浜館は、現在は得源寺の境内となっている。かなり改変されているらしく、現在残る遺構は本堂の北東に残る1本の土塁だけである。尚、寺の北側に広がる町屋は「殿町」と言い、長家家臣団の屋敷跡とされる。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.060485/136.886644/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
田鶴浜館は、七尾城主能登畠山氏の家臣から前田利家の与力となった長連龍の居館である。連龍の事績については穴水城の項に記載する。織田軍の尖兵となって能登で奮戦した連龍は、1580年に信長より鹿島半郡を与えられ、福水城を居城とすることを認められた。次いで徳丸城に居城を移し、その後田鶴浜館を築館して居住したとされる。この地は、元は能登畠山氏の家臣天野加賀守が居住したところであったらしい。連龍の田鶴浜館への移動は、通説では1606年とされているが、佐伯哲也氏は『能登中世城郭図面集』の中で疑問を呈しており、前後の状況から1582年頃まで遡るとの説を提示している。いずれにしても、以後長氏相伝の居館となり、1671年尚連の時に金沢城下に居所を移し、田鶴浜館は廃館となった。
田鶴浜館は、現在は得源寺の境内となっている。かなり改変されているらしく、現在残る遺構は本堂の北東に残る1本の土塁だけである。尚、寺の北側に広がる町屋は「殿町」と言い、長家家臣団の屋敷跡とされる。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.060485/136.886644/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:居館
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