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上野館(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2219.JPG←神社裏に残る土塁
 上野館は、仙台伊達藩で松山を領した重臣茂庭家の屋敷地である。1603年に茂庭周防良元は松山を与えられ、千石城(松山城)の三ノ丸に屋敷を築いて居住した。1631年、千石城三ノ丸が手狭であったため、新たに下屋敷として上野館を築いた。1651年に隠居すると、良元は上野館に移り住んだ。その後1657年、良元の子定元は作事の完成を待って正式に居館として移住し、以後幕末までの約200年間、茂庭氏は代々上野館を居館とし、松山統治の中心となった。

 上野館は、標高40m弱、比高25m程の丘陵上に築かれている。現在は県立松山高校の校地に変貌している。大型の方形単郭居館であったらしく、現在の校地の形状は、概ね往時の形を残している様である(但し、南部だけ校舎拡張で屋敷地外まで突出している)。古絵図によれば、東に表門、西に裏門が構えられており、表門は現在の高校正門にあったらしい。正門の道は、校地の中で左に折れており、往時の枡形の名残である可能性がある。校舎の北西に稲荷神社があり、その側方に西下からの登道が付いているが、これが裏門跡であろうか?また神社の裏には土塁が残っている。また校地の周囲は切岸地形をそのまま残している。館周囲には家臣団の屋敷が立ち並んでいたが、現在はおそらくその末裔の方の宅地となっている。館の南東には、御坂という登城道が車道となって残り、その下に駒池が復元されている。上野館は、遺構はかなり失われているが、往時の雰囲気は町割りの中に色濃く残っている様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.512445/141.049529/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


仙台城下の町名由来と町割―辻標八十八箇所を訪ねて

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