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甲府城(山梨県甲府市) [古城めぐり(山梨)]

IMG_2763.JPG←天守台の高石垣
 甲府城は、甲斐武田氏滅亡後に築かれた近世城郭である。元々この地は、鎌倉時代に武田信義の子一条忠頼が館を構えたと言われる。忠頼が源頼朝に謀殺されると、忠頼夫人が館跡に尼寺を建立し、後に時宗の名刹一蓮寺となった。1582年の武田氏滅亡、織田信長の横死後に、徳川家康の支配時代を経て豊臣政権下で築城が開始された。秀吉の甥豊臣秀勝、秀吉の家臣加藤光泰を経て、浅野長政・幸長父子によって慶長年間(1596~1615年)初頭に完成したと考えられている。1600年の関ヶ原の戦い後は、再び徳川氏の支配下に入り、平岩親吉が城代となった。1603年以降は、徳川義直(家康の9男)、忠長(2代将軍秀忠の3男)、綱重(3代将軍家光の3男)、綱豊(綱重の子、後の6代将軍家宣)ら徳川将軍家の連枝が城主となった。1704年に綱豊が6代将軍となると、柳沢吉保が甲府城主となり、吉保隠居後は子の吉里が城主となった。1724年に柳沢氏が大和郡山へ移封となると幕府の直轄領となり、勤番制が敷かれた。幕末の1866年、勤番制が廃されて城代が置かれ、城はそのまま明治維新を迎えた。

 甲府城は、甲府盆地の中心にある一条小山と呼ばれる独立丘陵を利用して築かれている。城域は大きく3つの区画に分かれるとされ、中心部分の内城、それを取り巻いて曲輪が付設された武家屋敷群の内郭、外側の城下町を取り込んだ総構えの外郭がある。現在残っているのは内城の東2/3だけである。内城が狭義の甲府城で、豊臣政権下の近世城郭だけあって、総石垣で築かれている。また各所の城門は枡形を形成している。本丸には東端に変則的な五角形の天守台が残るが、天守は築かれなかったらしい。本丸の周囲には西に二の丸、南に天守曲輪と鍛冶曲輪、北東に稲荷曲輪が築かれている。以上の部分は、現在も現存し(但し二の丸西辺部は消滅)、南側だけ水濠も残っている。各所の城門も、現在は復元整備されている。この内、稲荷曲輪門は、高麗門の後ろの小さな切妻屋根が、左右で長さが異なるという、珍しい形をしている。これら内城の曲輪の石垣はいずれも高く積まれ、屏風折れも各所に設けられているが、石垣があまりにも整然としすぎており、復元したものかと疑ってしまった。しかしこれらは皆復元ではなく、れっきとした遺構である。内城の内、二の丸の北から西・南にかけて配置されていた清水曲輪・屋形曲輪・楽屋曲輪は、市街化で消滅した。但し、清水曲輪の山手門付近だけは、近年になって復元整備された。この他、内郭周囲の2の堀が、町中に残っている。
 甲府城は、あまり知らずに訪城したのだが、比較的コンパクトに纏まった城とは言え、立派な現存石垣や復元櫓・門群があり、想像以上の威容で感心した。しかし備後福山城もそうだが、駅の目の前に内城がそびえており、なぜわざわざ城中に道路や鉄道を貫通させたのか、史跡保護の観点からすると惜しいことをしたものである。
左右非対称の稲荷曲輪門→IMG_2764.JPG
IMG_2665.JPG←山手門の渡櫓門
2の堀跡→IMG_2924.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.665351/138.570954/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


カラー図解 城の攻め方・つくり方

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タグ:近世平山城
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