SSブログ

躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市) [古城めぐり(山梨)]

IMG_2962.JPG←西曲輪の南虎口の石垣
 躑躅ヶ崎館は、武田氏館とも呼ばれ、甲斐武田氏3代(信虎・信玄晴信・勝頼)の居館である。戦国武田氏の歴史を綴った同時代資料である『高白斎記』に、1519年8月~12月に築館されたことが明記されている。翌年には要害城が立て続けに築城されており、平時の居館である躑躅ヶ崎館と詰城の要害城が一体となって運用される前提で築城されたことを物語る。築館したのは武田信玄の父信虎でこの時26歳、石和館から居館を移した。以後、1581年12月に武田勝頼が新府城に居城を移すまでの60余年間、甲斐武田氏の本拠であった。勝頼は、新府城移城に伴って一族家臣の反対を押し切るため、躑躅ヶ崎館を大きく破却した。翌82年3月、織田信長による武田征伐で強勢を誇った武田氏は滅亡し、甲斐には信長の家臣河尻秀隆が入ったが、わずか3ヶ月後、本能寺で信長が横死し、武田遺領を支配し始めたばかりの織田勢力は一挙に瓦解した。その後、権力の空白地帯となった武田遺領を巡って、北条・徳川・上杉による争奪戦(天正壬午の乱)が行われ、甲斐全域は徳川家康の支配下に入った。家康は、家臣の平岩親吉を甲府に置き、この時に破却された躑躅ヶ崎館を修築・改修したと考えられる。後に甲府城が築かれると、躑躅ヶ崎館は再び廃館となった。

 躑躅ヶ崎館は、相川扇状地の扇頂付近に築かれている。従って、館の南に伸びる大手筋は、一直線の下り勾配となっている。名称は館であるが、実際には5~6個の曲輪で構成された純然たる平城である。主郭に当たるのが中曲輪で、正方形の曲輪となっている。内部は武田神社となっており、周囲には土塁と水堀・空堀が廻らされ、南東隅には櫓台、北西隅には天守台が築かれている。天守台には石垣が築かれており、天守という名称も相まって、徳川時代の改修で構築されたことが明らかである。中曲輪の虎口は四方にあるが、南のものは近代の改変である。東虎口が大手で、その前には石積みの角馬出しが復元整備されているが、天守台と同様、武田氏滅亡後の構築とされる。武田氏時代にはここに丸馬出があったことが、発掘調査によって判明している。中曲輪の西側には堀を挟んで縦長長方形の西曲輪がある。ここも東辺以外に土塁を築き、周囲に水堀・空堀を廻らしている。西曲輪の南北には虎口が築かれ、虎口部の土塁は内側に折れており、方形の虎口郭を形成している。西曲輪の長辺は中曲輪よりもやや短く、南端部で横矢が掛けられている。中曲輪・西曲輪の虎口やその外の土橋には、石垣が見られる。西曲輪の南には梅翁曲輪、北には味噌曲輪があるが、一部の堀を除いて残存状況は良くない。この他、中曲輪の北には隠居曲輪、東の大手虎口前にも曲輪があったらしいが、かなり湮滅しているので、その外形を完全に追うことはできない。
 以上が躑躅ヶ崎館の遺構で、土塁も堀も大きく、さすが戦国大名武田氏の本拠である。尚、躑躅ヶ崎館は甲府の一大観光地であり、人がたくさん来ているが、人が入ってこない神社裏手の天守台に鹿が出たのにはびっくりした!
外周の水堀→IMG_2960.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.686581/138.577305/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


歴史家と噺家の城歩き (戦国大名武田氏を訪ねて)

歴史家と噺家の城歩き (戦国大名武田氏を訪ねて)

  • 出版社/メーカー: 高志書院
  • 発売日: 2018/12/05
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 5

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント