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狭間城(栃木県那須塩原市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_3310.JPG←主郭外周の横堀と土塁
 狭間城は、塩原城を攻略した橘伊勢守が築いた出城と伝えられる。橘氏は、下野の名族小山氏の一族と言われ、突如塩原地方に侵攻し、地侍の塩原氏等を傘下に収めつつ勢力を拡大し、ついに塩原城を奪取した。その後箒川を挟んで離室城主君島信濃守一族と激しい攻防戦を展開し、1475年に「戦場」地区で決戦を行って橘氏が大勝した。翌76年、狭間山に出城として狭間城を築いたと言われ、1502年まで使用していたとされる。

 狭間城は、箒川北岸の断崖上に築かれている。HP「栃木県の中世城郭」の記事を参考にして、城の西側にある赤沢温泉旅館方面から登城した。赤沢を長靴を履いて渡渉し、起伏のある丘陵を東に進み、更に谷筋を越えると城域に至る。狭間城が築かれた段丘は、珍しいことに川沿いの南辺縁部の方が高くなっており、そこに半円形の主郭が築かれている。主郭中央には小祠のある土壇があり、主郭外周には横堀が穿たれている。主郭の北には二ノ郭がある。二ノ郭は、西側が谷筋に面した急斜面で、傾斜の緩い北から東にかけて横堀が廻らされている。この横堀は南東部で竪堀となって下った後、東斜面下方で再び横堀となって南の崖まで掘り切っている。この東側の横堀は、2ヶ所わずかな折れを伴っていて、横矢を意識している。主郭の東側からこの横堀にかけては、堀沿いに土塁と帯曲輪が見られる以外は緩斜面となっていて、曲輪として機能していた感じではない。東横堀の下は谷間の広い平場となっており、小屋などが置かれていた可能性がある。但し、平場内には石の散乱した塚や一直線の石塁があり、どうも耕作地であったらしいので、後世の改変の可能性もある。
 以上が狭間城の主要部の状況であるが、西に広がる丘陵部にも物見台らしい小山や、辺縁部に土塁と思われる地形が見られ、これらも城郭遺構ではないかと思われる。
 狭間城は、主要部は大きな城ではないが、堀跡や曲輪がよく残っている。山林も、多少荒れているものの全体に薮が少なく手入れされている状況である。かつては遊歩道も整備されていた形跡があるので、再び整備されて日の目を見るようになればと思う。
東斜面の屈曲する横堀→IMG_3350.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.976381/139.816507/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世崖端城
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