田野館(栃木県那須塩原市) [古城めぐり(栃木)]
←南東の台地に残る二重堀切
田野館は、川崎城主塩谷氏の家臣関谷氏の居城と伝えられている。関谷太郎兼光が、川崎城の堀江氏(源姓塩谷氏)の家臣となって関谷の地に居住したのが関谷氏の始まりとされる。その後、鎌倉後期の正安年間(1299~1302年)に、箒川沿いに田野館を築いた。1509年には会津葦名氏の攻撃を受け、宇都宮氏らと共に片角原で戦った。1595年、塩谷氏の没落に伴って関谷氏も没落したと言う。
田野館は、箒川東岸の段丘南西端に築かれている。館跡は現在、那須たかはらオートキャンプ場となっている。キャンパーがたくさん来ていると遺構巡りがしにくいなぁ、と心配していたが、土曜の朝10時に行ったらまだ誰も来ておらず、キャンプ場の経営者と思われる老夫婦が開園の準備をしているだけだった。おじさんからお話を伺ったところ、かつて採土で山を削ったが、城の部分だけは残したとのことだった。どうりでキャンプ場が一段低い窪地になっているわけだ。従って、館跡の遺構はかなり失われている。『栃木県の中世城館跡』によれば、土塁・空堀で区画された6つの小郭が設けられていたらしい。この本は1982年の出版であるが、その記述によればこの当時はまだ遺構が良好に残っていた様である。現在残っているのは、南西部の円弧状横堀に囲まれた小高い小郭と、南東の削り残しの台地に穿たれた南端の堀切と北側の二重堀切だけである。南西の小郭も、西側は箒川によって往時よりも削られている様である。田野館は、遺構はわずかしか残っていないが、それでも完全消滅よりは遥かにマシである。わずかに残った遺構を末永く残してもらいたいものである。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.939293/139.895428/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
田野館は、川崎城主塩谷氏の家臣関谷氏の居城と伝えられている。関谷太郎兼光が、川崎城の堀江氏(源姓塩谷氏)の家臣となって関谷の地に居住したのが関谷氏の始まりとされる。その後、鎌倉後期の正安年間(1299~1302年)に、箒川沿いに田野館を築いた。1509年には会津葦名氏の攻撃を受け、宇都宮氏らと共に片角原で戦った。1595年、塩谷氏の没落に伴って関谷氏も没落したと言う。
田野館は、箒川東岸の段丘南西端に築かれている。館跡は現在、那須たかはらオートキャンプ場となっている。キャンパーがたくさん来ていると遺構巡りがしにくいなぁ、と心配していたが、土曜の朝10時に行ったらまだ誰も来ておらず、キャンプ場の経営者と思われる老夫婦が開園の準備をしているだけだった。おじさんからお話を伺ったところ、かつて採土で山を削ったが、城の部分だけは残したとのことだった。どうりでキャンプ場が一段低い窪地になっているわけだ。従って、館跡の遺構はかなり失われている。『栃木県の中世城館跡』によれば、土塁・空堀で区画された6つの小郭が設けられていたらしい。この本は1982年の出版であるが、その記述によればこの当時はまだ遺構が良好に残っていた様である。現在残っているのは、南西部の円弧状横堀に囲まれた小高い小郭と、南東の削り残しの台地に穿たれた南端の堀切と北側の二重堀切だけである。南西の小郭も、西側は箒川によって往時よりも削られている様である。田野館は、遺構はわずかしか残っていないが、それでも完全消滅よりは遥かにマシである。わずかに残った遺構を末永く残してもらいたいものである。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.939293/139.895428/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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