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鳩ヶ森城(栃木県那須塩原市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_3742.JPG←土塁で囲まれた主郭
 鳩ヶ森城は、宇都野城とも言い、川崎城主塩谷氏に属した土豪山本氏の居城である。山本氏は、元々嶽山箒根神社の別当であったが、山本上総介家隆は後三年の役の軍功で、箒川沿岸8か村、伊佐野郷15か村を領した。そして1089年、家隆は鳩ヶ森城を築いた。以後、代々この地を本拠として勢力を保った。南北朝時代には、14代家房は南朝方の新田氏に属し、紀州龍門山の戦いで討死した。弟の家親が跡を継ぎ、山本氏は栄えた。戦国期の天文年間(1532~55年)頃、山本伊勢守資宗が当主の時、大田原備前守資清に攻撃され、鳩ヶ森城は落城し、28代440年余続いた山本氏は滅亡したと言う。
 しかしこれには異説もある。即ち1564年、宗家の川崎塩谷氏と分家の喜連川塩谷氏の抗争の際、喜連川城主塩谷孝信は、少数の家臣を引き連れて兄由綱(義孝)の居城川崎城に忍び込み襲撃した。由綱は自殺に追い込まれ、わずか6歳の嫡子弥太郎(後の義綱)は家臣らに守られて、山本上総介の居城鳩ヶ森城へ逃れた。そして2年後に川崎城を奪還するまで鳩ヶ森城に居たと言う。

 鳩ヶ森城は、箒川西岸の舌状台地に築かれた城である。南北に伸びる台地状を5本の堀切で分断して曲輪を連ねた連郭式の縄張りであるが、北に行くに従って末広がりとなる形状である。曲輪の呼称は資料や解説板によって異なるが、城巡りの先達余湖さんのものが最も妥当と思われるので、その呼称をここでは採用する。南端からニノ郭・主郭・三ノ郭・四ノ郭・五ノ郭・外郭と並び、更にニノ郭から三ノ郭までの東側には帯曲輪が伸びている。またニノ郭南側にも笹曲輪的な腰曲輪があり、南端部に物見を兼ねたと思われる土塁が築かれている。ニノ郭も主郭も土塁で囲繞され、二ノ郭の北側には土塁で囲まれた方形の小郭があり、門跡であったらしい。ここから主郭へは堀切があるので、木橋が架かっていたのだろう。ただ、主郭も二ノ郭も雑草が繁茂し、特に西辺部は土塁に近づくことすらできない。10年程前に大々的に雑木を伐採して整備したらしいが、その後はあまり整備が継続されていない結果らしい。主郭の北側には深い堀切が穿たれ、その先が三ノ郭となる。三ノ郭の南東部には内枡形の虎口が築かれている。三ノ郭の北にも幅広の堀切が穿たれているが、東側は深く規模が大きいものの、西側は埋められたのかかなり浅くなっている。この堀切は西端で南に折れている。その北が四ノ郭で半分ほどが畑となっている。四ノ郭の南東部には堀切沿いに一段低い腰曲輪が付随している。四ノ郭北側の堀切とその北の五ノ郭の堀切は、東側半分だけが残っている。しかしこれも深い堀で、東端でいずれも五ノ郭側に向かってクランクし、横矢が掛けられている。五ノ郭はほとんどが畑となり、外郭には民家と畑がある。この他、ニノ郭~主郭間の堀切の東側には白旗塚という土壇があり、主郭~三ノ郭間の堀切の東側には井戸跡が残り水を湛えている。
 鳩ヶ森城は、那須塩原市内では最大の城郭で、この地域の拠点城郭だった可能性がある。縄張り的には白旗城によく似ているが、横矢掛りが随所にあり白旗城より新しい縄張りである。大田原氏の攻略後も、使用された可能性が考えられる。
 それにしても、前述した通り、主郭・二ノ郭は雑草がひどい。長期的視点で考えて維持できないのなら、木を全部切るのはやめて欲しい。木がなくなって丸裸になると、日当たりが良くなって雑草の繁茂が加速してしまうのである。そのため、山林のままの三ノ郭・四ノ郭の方が、まだ見れる状態である。史跡整備が失敗した事例となってしまい、巨城であるだけに残念でならない。
四ノ郭堀切の横矢掛り→IMG_3849.JPG
IMG_3870.JPG←五ノ郭の堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.896817/139.905707/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

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