荒屋楯〔仮称〕(山形県金山町) [古城めぐり(山形)]
←南斜面の畝状竪堀
(青線が竪堀)
荒屋楯は、私が2019年11月に新発見した山城である。速報は、その時に簡単に掲載したが、今回は詳報を記載する。
(写真・画像は、クリックで拡大します)
【縄張り】
山頂部に東西に細長い主郭を配置する。郭内は後部で2段に分かれ、中央が高く両翼は一段低くなっている。その後部には土塁を築き、更に明確な二重堀切で背後の尾根を分断している。また主郭両翼に当たる南北の斜面には、びっしりと畝状竪堀が穿たれている。最上氏の勢力圏によく見られる畝状竪堀と同形状で、竪堀の長さは短く、畝のような竪土塁はコブ状(イモ虫状、或いはオムライス状とも言える)となっている。帯曲輪から竪堀が落ちる形態で、付近にある愛宕山楯と同種のものである。南側の畝状竪堀は薮が少ないので見易く、ざっと数えて24本もの竪堀が穿たれている。一方、北側のものは草木に覆われていて、非常に見辛い。辛うじて畝状竪堀のコブがいくつか確認できるだけである。しかし北側も主郭の長さ分だけの竪堀群があるらしく、こちらも20本程度は竪堀が穿たれていると推測される。これらはいずれも、山形県内の畝状竪堀としてはトップクラスの数である。これらの畝状竪堀は、主郭背後の二重堀切から落ちる竪堀と連続して構築されている。主郭の西側には二ノ郭があるが、削平は甘い。二ノ郭の西側に尾根を区画する小堀切が穿たれている。その先は自然地形の尾根であるが、謎のL字土塁が確認できる。土が硬いので、明らかに土塁として築かれたものであるが、役割は明確ではない。もしかしたら枡形虎口の土塁かもしれない。もしそうだとすると、二ノ郭の西側にも外郭があったことになる。遺構は以上である。
←主郭背後の二重堀切
←主郭後部の土塁
←北斜面の畝状竪堀
【位置関係からの城の役割の考察】
荒屋楯は、金山川西岸にそびえる標高230m、比高60m程の山上に築かれている。
荒屋楯と金山城、愛宕山楯との位置関係を地形図に落とし込むと、下図の様になる。(国土地理院発行1/25000地形図と傾斜量図を重ねたものに加筆)
金山城の南西の平地に広がっていたと推測される城下集落を囲むように、ほぼ正三角形に各城が配置されている。その為、城下集落にはこれら3城による挟撃ゾーンが形成される。(下図)
この地の主城は、最上氏家臣の丹与惣左衛門が居城とした金山城であるから、荒屋楯は愛宕山楯と共に、金山城下に侵攻する敵勢を、側面から牽制・攻撃する役目を負っていたと考えられる。最上氏の山城では、比較的小規模な城に畝状竪堀が構築されていることが多い。これは少数の兵しか置けない出城で、効果的に敵勢を撃退するための工夫と考えられるから、荒屋楯と愛宕山楯は、まさに少数の兵で側面から敵を牽制する目的で築かれたと推測できる。
これらの状況から、荒屋楯は仙北小野寺氏に備えたものか、或いは関ヶ原前夜の緊張状態の中で庄内の上杉勢に備えたものと推測できる。
【城へのアクセス】
登山道はない。私は取り付きやすい南東の斜面を直登した。それほどきつい斜面ではないので、山城に慣れたキャッスラーなら登攀できる。またこの山は間伐や植林がされているので、適度に薮払いされている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.882181/140.329292/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
(青線が竪堀)
荒屋楯は、私が2019年11月に新発見した山城である。速報は、その時に簡単に掲載したが、今回は詳報を記載する。
(写真・画像は、クリックで拡大します)
【縄張り】
山頂部に東西に細長い主郭を配置する。郭内は後部で2段に分かれ、中央が高く両翼は一段低くなっている。その後部には土塁を築き、更に明確な二重堀切で背後の尾根を分断している。また主郭両翼に当たる南北の斜面には、びっしりと畝状竪堀が穿たれている。最上氏の勢力圏によく見られる畝状竪堀と同形状で、竪堀の長さは短く、畝のような竪土塁はコブ状(イモ虫状、或いはオムライス状とも言える)となっている。帯曲輪から竪堀が落ちる形態で、付近にある愛宕山楯と同種のものである。南側の畝状竪堀は薮が少ないので見易く、ざっと数えて24本もの竪堀が穿たれている。一方、北側のものは草木に覆われていて、非常に見辛い。辛うじて畝状竪堀のコブがいくつか確認できるだけである。しかし北側も主郭の長さ分だけの竪堀群があるらしく、こちらも20本程度は竪堀が穿たれていると推測される。これらはいずれも、山形県内の畝状竪堀としてはトップクラスの数である。これらの畝状竪堀は、主郭背後の二重堀切から落ちる竪堀と連続して構築されている。主郭の西側には二ノ郭があるが、削平は甘い。二ノ郭の西側に尾根を区画する小堀切が穿たれている。その先は自然地形の尾根であるが、謎のL字土塁が確認できる。土が硬いので、明らかに土塁として築かれたものであるが、役割は明確ではない。もしかしたら枡形虎口の土塁かもしれない。もしそうだとすると、二ノ郭の西側にも外郭があったことになる。遺構は以上である。
←主郭背後の二重堀切
←主郭後部の土塁
←北斜面の畝状竪堀
【位置関係からの城の役割の考察】
荒屋楯は、金山川西岸にそびえる標高230m、比高60m程の山上に築かれている。
荒屋楯と金山城、愛宕山楯との位置関係を地形図に落とし込むと、下図の様になる。(国土地理院発行1/25000地形図と傾斜量図を重ねたものに加筆)
金山城の南西の平地に広がっていたと推測される城下集落を囲むように、ほぼ正三角形に各城が配置されている。その為、城下集落にはこれら3城による挟撃ゾーンが形成される。(下図)
この地の主城は、最上氏家臣の丹与惣左衛門が居城とした金山城であるから、荒屋楯は愛宕山楯と共に、金山城下に侵攻する敵勢を、側面から牽制・攻撃する役目を負っていたと考えられる。最上氏の山城では、比較的小規模な城に畝状竪堀が構築されていることが多い。これは少数の兵しか置けない出城で、効果的に敵勢を撃退するための工夫と考えられるから、荒屋楯と愛宕山楯は、まさに少数の兵で側面から敵を牽制する目的で築かれたと推測できる。
これらの状況から、荒屋楯は仙北小野寺氏に備えたものか、或いは関ヶ原前夜の緊張状態の中で庄内の上杉勢に備えたものと推測できる。
【城へのアクセス】
登山道はない。私は取り付きやすい南東の斜面を直登した。それほどきつい斜面ではないので、山城に慣れたキャッスラーなら登攀できる。またこの山は間伐や植林がされているので、適度に薮払いされている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.882181/140.329292/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
写真ですと畝状竪堀は明確には分かりませんが、
堀切と切岸は明らかに人工物のに見えますね。
それに周辺位置関係からみても、
城があってもおかしくない場所だと思いました。
by evergreen (2020-03-13 10:31)
>evergreenさん
いつもご訪問いただきありがとうございます。
ここの畝状竪堀は、現地だとはっきりわかるんですが、
写真だとちょっと分かりづらいのが残念です。
by アテンザ23Z (2020-03-14 13:20)