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水の手楯(山形県最上町) [古城めぐり(山形)]

IMG_4987.JPG←腰曲輪の櫛歯状竪堀
 水の手楯は、歴史不詳の城である。志茂の手楯も、その別名を水の手楯と伝えられるが、水の手楯と志茂の手楯は位置が隣接しているので、両者を混同したものとも考えられる。また城の形態としては、志茂の手楯が巨大な二重空堀で一城別郭とした豪壮な造りであるのに対して、水の手楯は堀の少ない単純な縄張りであることから、志茂の手楯に伝わる「小国城主細川摂津守直元の弟帯刀直茂の居城」とは、実はこの水の手楯のことで、志茂の手楯は細川氏を滅ぼした最上氏の勢力が新たに築いた城ではなかったかと個人的に推測している。

 水の手楯は、標高283.6m、比高80m程の八森山に築かれている。その点では、八森山楯と呼ぶ様にした方がわかりやすいかもしれない。志茂の手楯の築かれた山の隣の峰で、直線でわずか600m程しか離れていない。明確な登り道はないので、農道が山裾まで伸びている南東麓から斜面を直登した。山頂に瓢箪型の主郭を置き、その北東に台形状の二ノ郭、また南西から南面を周って南東まで腰曲輪を廻らし、更にこれらの最外周に腰曲輪を築いた縄張りとなっている。主郭と二ノ郭には土塁も堀切もなく、切岸だけで区画されている。また主郭南西の腰曲輪の下にある腰曲輪には、先端に土塁が築かれ、左方に竪堀状の虎口が築かれている。また二ノ郭周囲の腰曲輪には、櫛歯状の竪堀群が刻まれている。これは志茂の手楯の二ノ郭腰曲輪にも同様の構造がある。この点では、水の手楯と志茂の手楯とで、築城主体が同一であった可能性も考えられる。細川氏滅亡後、最上氏は当初水の手楯を改修して使用しようとしたものの、地形面の制約から新たに志茂の手楯に移ったものであろうか?この他、二ノ郭周囲の腰曲輪には、竪堀の様な桝形虎口らしい構造も見られる。
 水の手楯は、普請は明確で、ある程度の広さを持った山城であるが、櫛歯状竪堀群以外に技巧的構造がなく、素朴な形態を残している。
腰曲輪と二ノ郭切岸→IMG_5001.JPG
IMG_5044.JPG←南西腰曲輪の土塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.774261/140.467705/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

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タグ:中世山城
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