貫見大城(山形県大江町) [古城めぐり(山形)]
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貫見大城は、単に大城(だいじょう)と呼ばれ、寒河江大江氏最後の当主大江高基の弟隆廣の城であったと伝わっている。築城時期は不明だが、『山形県中世城館遺跡調査報告書』では鎌倉時代の築城としている。1584年、山形城主最上義光の攻撃によって高基は寒河江城から貫見楯に逃れ、家臣たちが防戦している間に高基は御館山城に登って自刃したが、この時隆廣も貫見楯で戦い自刃したと言う。
貫見大城は、月布川曲流部に南から突き出た台地上に築かれている。県道27号線の南側が高台となっていて、そこが主郭であったらしい。以前は集合住宅か何かが建っていたらしいが、現在は何もなく雑草に覆われた空き地となっている。主郭内部は改変のせいと雑草で明確な遺構は不明であるが、主郭の南東から南にかけて台地基部を分断する大空堀がはっきりと残っており、県道側からも空堀跡を望むことができる。よく見ると、空堀が弧を描いて曲がる部分にのみ、主郭外周に帯曲輪が見られる。この他に土塁や井戸跡も残るとされるが、よくわからなかった。県道からの台地入口には「大城」の石柱が立っている。
尚、城の名前であるが、「大城」ではどこのことかさっぱりわからないので、ここでは貫見大城と記載した。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.384913/140.120541/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
貫見大城は、単に大城(だいじょう)と呼ばれ、寒河江大江氏最後の当主大江高基の弟隆廣の城であったと伝わっている。築城時期は不明だが、『山形県中世城館遺跡調査報告書』では鎌倉時代の築城としている。1584年、山形城主最上義光の攻撃によって高基は寒河江城から貫見楯に逃れ、家臣たちが防戦している間に高基は御館山城に登って自刃したが、この時隆廣も貫見楯で戦い自刃したと言う。
貫見大城は、月布川曲流部に南から突き出た台地上に築かれている。県道27号線の南側が高台となっていて、そこが主郭であったらしい。以前は集合住宅か何かが建っていたらしいが、現在は何もなく雑草に覆われた空き地となっている。主郭内部は改変のせいと雑草で明確な遺構は不明であるが、主郭の南東から南にかけて台地基部を分断する大空堀がはっきりと残っており、県道側からも空堀跡を望むことができる。よく見ると、空堀が弧を描いて曲がる部分にのみ、主郭外周に帯曲輪が見られる。この他に土塁や井戸跡も残るとされるが、よくわからなかった。県道からの台地入口には「大城」の石柱が立っている。
尚、城の名前であるが、「大城」ではどこのことかさっぱりわからないので、ここでは貫見大城と記載した。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.384913/140.120541/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
タグ:中世平山城 出羽寒河江大江氏の城郭
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