SSブログ

田手岡館(宮城県大和町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5630.JPG←北西麓の水堀
(2019年11月訪城)
 田手岡館は、伊達一門に列する宮床伊達家の居館である。宮床伊達家は伊達氏の庶流で、元は伊達崎氏を称し、伊達崎城を居城としていた。後に田手氏に改称した。宮床の初代領主伊達宗房(政宗の孫で、2代藩主忠宗の8男)は、4歳で田手高実に入嗣し、田手肥前宗房を名乗った。1659年、14歳の時に伊達姓を許され、一門に列せられた。翌年、在所を宮床に移し、田手岡館を築いて居所とした。宗房の長子村房は、1686年、父宗房の死により宮床伊達家を継いだが、1695年に伊達本家4代綱村の養嗣子に迎えられたため(村房は1703年に伊達本家5代藩主吉村となった)、村房の弟村興が宮床伊達家3代当主となった。1702年、川崎要害を領した砂金氏が無嗣断絶となると、村興は川崎要害に移されたが、1722年、兄吉村の命で再び宮床に戻された。以後、田手岡館が代々の居館となり、幕末まで存続した。

 田手岡館は、比高20m程の丘陵上に築かれている。北麓の民家脇から登道(大手道)が付いており、館内もある程度は薮払いされているが、冬でなければ訪城は難しいだろう。前述の登道を登ると虎口に至る。形状があまりはっきりしないが、内枡形になっていた様である。本丸内はいくつかの段差に分かれた広大な平場で、西辺部に土塁が残り、搦手虎口も確認でき、井戸跡も残っている。搦手の外は二ノ丸とされるが、一面の薮で形状が把握できない。また本丸の南端付近には、祠の建つ大土壇があり、その東側に堀のような低湿地がある。どうも庭園跡であるらしい。土壇も庭園の築山であったかもしれない。この他、丘陵の北西麓には水堀が残存している。北麓の大手には丸馬出もあった様だが、現在は湮滅している。
 田手岡館は、往時の構造はあまりはっきりわからなくなってしまっているが、部分的に遺構を残している。尚、石垣も残るとされ、大手道沿いの切岸にわずかに石が見られるが、石垣と言うほど立派なものではなく、これもはっきりしない。近世の城館だが、ちょっと残念な状況である。
本丸の土塁→IMG_5585.JPG
IMG_5611.JPG←井戸跡

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.402000/140.844716/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 5

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント