若柳城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]
←主郭の給水施設
(2019年11月訪城)
若柳城は、新井山館とも言い、葛西氏の家臣千葉豊後の居城であったと伝えられている。古くは八幡太郎源義家の陣所であったとも言われるが定かではない。室町時代には、この地は元々大崎氏の勢力下であったが、葛西晴信はこの地を攻め取り、若柳城を築いて千葉豊後に守らせたと言う。
若柳城は、迫川南岸の標高39.1mの丘陵上に築かれている。東麓の車道脇に標柱が立っており、その近くから主郭にある給水施設までの登道が付いている。主郭は給水施設となっているので、破壊を受けているが、周りの切岸などは往時の姿を部分的に残しているように思われる。また周囲には腰曲輪状の段があり、曲輪の形態は残っている様だ。東の山林内にもいくつかの平場が見られ、切岸らしい段差も確認できる。『日本城郭大系』では北側に二重の空堀があると記載されているが、空堀については確認できなかった。全体的に城の雰囲気は残っているものの、改変により遺構が今ひとつ明確でないのが残念である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.775148/141.113580/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
(2019年11月訪城)
若柳城は、新井山館とも言い、葛西氏の家臣千葉豊後の居城であったと伝えられている。古くは八幡太郎源義家の陣所であったとも言われるが定かではない。室町時代には、この地は元々大崎氏の勢力下であったが、葛西晴信はこの地を攻め取り、若柳城を築いて千葉豊後に守らせたと言う。
若柳城は、迫川南岸の標高39.1mの丘陵上に築かれている。東麓の車道脇に標柱が立っており、その近くから主郭にある給水施設までの登道が付いている。主郭は給水施設となっているので、破壊を受けているが、周りの切岸などは往時の姿を部分的に残しているように思われる。また周囲には腰曲輪状の段があり、曲輪の形態は残っている様だ。東の山林内にもいくつかの平場が見られ、切岸らしい段差も確認できる。『日本城郭大系』では北側に二重の空堀があると記載されているが、空堀については確認できなかった。全体的に城の雰囲気は残っているものの、改変により遺構が今ひとつ明確でないのが残念である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.775148/141.113580/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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