SSブログ

宮崎館(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN1657.JPG←西側に残る水堀
(2020年2月訪城)
 宮崎館は、藩政時代に伊達家の家臣石母田氏、後に古内氏の居館である。石母田氏・古内氏居館と言った方がわかりやすいかもしれない。伊達家の藩制で言う「宮崎所」(「所」は「要害」の下のランク)である。1590年に生起した葛西大崎一揆で激戦地となった宮崎城は、一揆鎮圧後は伊達領となり、文禄より慶長の初め頃まで宮崎城は片平親綱・山岡志摩重長・石母田宗頼の3人が交代で管理していたと伝えられる。その後、牧野大蔵盛仲・茂仲が50年余り支配した後、1652年に石母田氏6代永頼が岩ヶ崎所から宮崎に移封となった。永頼は6年間宮崎城に在館したが手狭であったため、1658年に宮崎館を築いて移り住んだ。以後、約100年間に渡って石母田氏歴代の居館であったが、1757年に9代興頼は高清水要害に転封となった。その後、古内氏5代義清が小野田所から宮崎所に移され、以後幕末まで古内氏の居館となった。

 宮崎館は、現在の加美町宮崎支所の北側一帯にあった。宮崎市所の敷地の北半分と、東隣りの宮崎小学校の校地の北西1/4もかつての屋敷地である。東西180m、南北160m程の規模で、周囲を完全な環濠で囲まれ、その内側に土塁を築いた堂々たる屋敷であったと言う。現在は、北辺と西辺それぞれ3/4程の土塁が残り、西側では堀跡(一部は水堀)も残っている。宮崎館は、宮城県の遺跡地図にも載っていないが、遺構は一部とはいえしっかりと残っている。また宮崎支所からまっすぐ南に伸びる道がかつての大手道であったらしく、南の小川を渡る橋には大手橋の名が付いている。尚、宮崎支所の敷地正面に「旧仙台藩士永代着座古内氏所屋敷内跡地」と刻まれた大きな石塔が立ち、その傍らには古内氏所縁という松が植わっている。しかし解説板などはなく、街中にもあまり伊達氏家臣の所縁を感じさせるものはない。宮崎城に立て籠もった将兵が伊達政宗に徹底して殲滅されているので、やはり反伊達の意識が根強く残っているのだろうか。
北辺の土塁→DSCN1639.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.615529/140.758853/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


仙台藩ものがたり

仙台藩ものがたり

  • 出版社/メーカー: 河北新報総合サービス
  • 発売日: 2020/06/18
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 

nice! 5

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント