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千石城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN2486.JPG←堀切と二ノ丸
(2020年2月訪城)
 千石城は、松山城とも言い、伊達氏の家臣遠藤氏の居城で、伊達領最北端を守る要衝であった。伝承では、遠藤氏の祖遠藤盛遠(文覚上人)が築いたとされるが、定かではない。室町時代の1401年に、遠藤盛継が鎌倉公方足利満兼より志田・玉造・加美三郡の奉行に任じられて陸奥に下向し、千石城を居城とした。以後、200年間7代に渡る遠藤氏の居城となった。1536年、大崎氏の内乱に際して、15代光定は伊達稙宗に従って古川城攻撃に参陣した。1588年、大崎氏家中の内紛を機に伊達政宗による武力介入を許し、大崎合戦が生起した。その際、千石城は留守政景・泉田重光を大将とする伊達勢が集結する前線基地となった。このことから北の鳴瀬川を挟んで大崎領と対峙する、伊達家臣団の最北限として遠藤氏が位置付けられていたことがわかる。1590年の葛西大崎一揆平定の際も、伊達政宗は千石城に入城している。一揆平定後、政宗が岩出山城に移封となると、遠藤出雲守高康は領地替えとなって登米郡石森館に移封となった。その後、石川昭光が1598年まで在城し、その後は古内重直が1603年まで在城した。1603年からは茂庭良元が松山の領主となり、千石城三ノ丸に居を構えた。1631年、千石城三ノ丸が手狭であったため、新たに下屋敷として上野館を築いた。良元は1651年に隠居すると、上野館に移り住んだ。その後1657年、良元の子定元は作事の完成を待って正式に居館として上野館に移住し、千石城三ノ丸には留守居として家臣1名を置くだけとなった。

 千石城は、標高76m、比高60m程の丘陵上に築かれている。城跡は現在御本丸公園として整備されており、主要な曲輪だけでなく、周りの段曲輪・腰曲輪に至るまで、かなり広範囲に整備されているので、訪城は容易である。北から順に三ノ丸、繋ぎの曲輪、二ノ丸、本丸が配置された連郭式の縄張りである。三ノ丸は公園化で改変が進んでいるが、周囲に低土塁が残り、南西部に大型の櫓台が残っている。三ノ丸の北側には腰曲輪群が何段も築かれ、大手道の車道沿い両側にも段々の平場が見られる。また三ノ丸北東の尾根にも舌状曲輪群が置かれている。ここは花舘の地名が残っているが、花=端の意味で、城域先端部の曲輪群である。繋ぎの曲輪の奥には堀切を挟んで二ノ丸があり、更に堀切を挟んで本丸がある。本丸は中央部がややくびれたつづみ型の曲輪である。本丸背後にも大切岸の下に舌状曲輪が2段あり、その先は大堀切で分断されている。この大堀切は、房総南部に多い垂直絶壁型の堀切で、崩れにくい地質らしい。そういえば、各曲輪の切岸も鋭く切り立った垂直に近い切岸である。またこの大堀切まで西麓から登道があり、弁慶坂と呼ばれている。この登道周囲にも多くの腰曲輪群が築かれている。この他、繋ぎの曲輪・二ノ丸・本丸の周囲にも帯曲輪、腰曲輪が築かれている。本丸の南東には切岸直下に小堀切を穿ち、その下方の尾根にも段曲輪群が築かれている。千石城は、近世に拡張整備された部分もあると思うが、戦国期には伊達領最北端を守る要衝だっただけあって、巨大な拠点城郭である。
大堀切→DSCN2537.JPG
DSCN2577.JPG←主郭切岸と南東の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.505410/141.053091/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


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