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大谷津城(栃木県市貝町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3880.JPG←主郭北側の横堀
 大谷津城は、千本城の支城である。伝承では、永正年間(1504~21年)に大谷津伊勢守藤永が築いたとされるが、藤永の存在自体に確証がない。『大谷津城主系譜(平野文書)』では、大谷津氏初代は政永とされ、1516年に「政永屋形」を築いたと言う。2代持茂は居城わずか3年で、3代茂永が伊勢守を名乗って、西方500mに宇都宮勢を防ぐための出城・ひめ城を築いている。茂永は那須氏に従って軍功を挙げ、芳志戸村・曲畑村を加増されている。4代茂吉は、1585年に滝の太平寺の変で千本城主千本資俊が黒羽城主大関高増に謀殺されると、城に火を放って千本氏に殉じたと言う。その後、滝の別当が大谷津を領し、還俗して大谷津周防を名乗ったと伝えられるが、千本氏謀殺の際、滝太平寺の別当が高増に協力しているらしいので、その恩賞として大谷津領を拝領したのかもしれない。いずれにしても大谷津城は、杉山城続谷城田野辺城等と共に千本城の支城として宇都宮氏に備える重要な役割を負っており、千本城落城と共に廃城となった。

 大谷津城は、小貝川東岸の比高35m程の丘陵上に築かれている。南西麓に城址案内板があり、民家脇を登る小道が付いている。かつての大手道とされ、切通し状の道がクランクしながら登っている。その先は腰曲輪となる。城内は山林や畑となっており、改変があるものの腰曲輪群・空堀・切岸・土塁等がしっかり残り、縄張りはほぼ追える感じである。丘陵の中央部北側に主郭があり、南に二ノ郭・三ノ郭を連ね、更にこれらの外周に腰曲輪群を築いた縄張りとなっている。主郭と二ノ郭の間は切岸だけで区画され、二ノ郭~三ノ郭の間はほとんど埋まってしまっているが、空堀で分断されていた様である。主郭の北側には円弧状に横堀が穿たれている。また主郭の南西には鏡池という池があったらしいが、現在はわずかな窪地が残っているだけである。この他、城域東側は堀跡と思われる一段低い畑地が見られる。よく参考にさせていただいているHP「新 栃木県の中世城郭」などでは、改変によって随分と評価の低い城であるが、実際に見た限りではそれほど酷い状態とは感じられなかった。これだけ城跡らしさが残っていれば、満足すべきだろう。
二ノ郭~三ノ郭間の空堀跡→DSCN3934.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.596425/140.102216/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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