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福原城(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN5785.JPG←主郭南側の大空堀と外周土塁
 福原城は、福原館(北岡館)に対する詰城である。城郭本によって、福原城を福原要害城と呼び、平地の城館である福原館を福原城と呼んでいるので、少々混乱するが、ここでは『日本城郭大系』『栃木県の中世城館跡』の表記に従って福原城と表記する。

 福原城は、下野の名族那須氏の前期の居城である。那須氏が上那須・下那須両家に分裂した時代には、福原城は上那須家の居城であった。築城時期は不明であるが、1187年に那須資隆が10人の子を各地に分封した際に、4男久隆は福原に入部し、福原氏の祖となった。後に弟の五郎之隆が福原氏を継いだが、之隆は那須本家を継いだ末弟与一宗隆(但し、実在は証明されていない)から本家の家督を継承し、以後福原城が那須氏の居城となった。南北朝期には、那須氏は足利尊氏に従い、1337年に南朝方の鎮守府将軍北畠顕家に属した相馬胤平らに「名須城」(福原城と推測されている)が攻撃されている。しかしその後も那須氏は尊氏に忠節を尽くし、1355年の京都奪還戦における那須資藤の壮絶な最後は『太平記』や『源威集』に語られている。その後、鎌倉公方が関東八屋形を制定すると、那須氏はその中に名を連ねる名家となった。1414年、那須資之と弟の沢村城主沢村資重が不和となった。資之は妻の父上杉禅秀に唆されて、資重の沢村城を攻撃した。資重は興野館に退き、後に稲積城を修築して移り、更に1418年に烏山城を築いて居城を移した。資之は福原城に拠って上那須氏を称し、資重は烏山城に拠って下那須氏を称して、那須氏は上那須・下那須両家に分裂した。以後、100余年に渡って那須氏の分裂は続いたが、永正年間(1504~21年)に上那須氏は内訌によって滅亡した。即ち、上那須資親には当初男子がなく、白河結城義永の次男資永を婿養子に迎えたが、その後実子の資久が生まれたため、1514年、資親はその死に臨んで重臣の大田原胤清に資久に家督を継がせるよう遺言して世を去った。胤清は、大関・金丸等の諸将と共に資永の福原城を攻撃した。この時、資永の近臣関野十郎義時は、密かに福原城を脱出して資久が匿われている山田城に忍び込み、資久を拉致して福原城に連れ去った。資永は喜んで資久を刺殺し、自らも自刃して上那須氏は断絶、福原城は落城した。そこで、烏山城の下那須資房は1516年に上下両那須氏を統一した。その後は、烏山城が那須氏の本城となった。しかし名族那須氏も1590年那須資晴の時、豊臣秀吉に小田原不参の故を以って改易された。一方、小田原に参陣して所領を安堵された大田原氏・大関氏らは那須氏の再興を嘆願し、資晴の子資景は5千石を与えられて那須氏を再興し、福原城を再興した。江戸時代初期の1610年、資晴が没すると資景はその遺領6000石を継ぎ、合計1万4千石の大名として那須藩を立藩した。資景の子資重が跡を継いだが、1642年に嗣子なく死没し一時廃藩となった。1664年、増山弾正正利の弟権之助が入嗣して那須資祇となり、1万2000石で大名に復帰し、那須藩を再び立藩した。資祇は、4代将軍家綱の生母お楽の方(宝樹院)の弟であったため、1681年に8000石を加増されて烏山藩への復帰を許され、烏山城に移住、福原城は廃城となった。
 以上の様に、福原城は近世まで利用された城であるが、その結構は戦国時代のものと思われる。

 福原城は、福原城の南東約600mの比高50m程の山上に築かれている。登道はないので、北西の斜面に取り付いて登っていくと、中腹に腰曲輪らしい小さな削平地があり、その脇に竪堀が上方から落ちている。竪堀を登ると城域に入る。城は大まかに、南東の主郭と北西の二ノ郭で構成されている。二ノ郭の北側にはやや大きな切岸で区画された低い平場があり、これが三ノ郭と思われる。これらの主要部は、北面は急斜面だけで守られているが、西面から南面・東面にかけては大規模な空堀で防御している。二ノ郭西側の空堀は、西面と北端に竪堀が落ちている。二ノ郭外周の空堀は、そのまま主郭外周の空堀に繋がっているが、規模は主郭のものの方が大きく、切岸も主郭のものはかなり大きく眼前にそびえている。主郭背後も空堀で分断され、その外側には独立堡塁状の曲輪が南と東に2つ配置され、それらの間も空堀で分断されている。これらをそれぞれ南郭・東郭と呼称すると、南郭の南側にも更に堀切が穿たれ、西端部で主郭空堀から分岐した堀と合流している。この辺りの堀のネットワークは複雑で、かなり手の混んだ普請がされている。東郭は、東に向かって大きくえぐれたコの字状の堡塁である。その北側も主郭空堀が北東に折れて掘り切っている。主郭は高さ10mに近い大土塁で、東面・南面を防御している。この土塁は西面まで続いているが、西に行くにつれて高さが低くなっている。南東には隅櫓台がそびえ、眼下の空堀と南郭を睥睨している。主郭の虎口は、大手が北西に、搦手が東側に築かれている。主郭内部は進入困難な激薮で覆われている。また主郭の北東角から先には北東の尾根が伸び、ここにも小堀切の先に段曲輪が2段築かれている。二ノ郭は、主郭と空堀で分断され、この空堀は北側で東に折れている。この堀に沿う形で、二ノ郭の北東から土塁が伸び、櫓台が置かれている。この櫓台を迂回するように城道が残り、二ノ郭の虎口に繋がっている。二ノ郭も、主郭と同様に北面以外を土塁で囲んでいるが、土塁の規模は小さい。しかし南東には隅櫓台が築かれ、この隅櫓台は主郭西側の空堀に対してやや張り出して、横矢を掛けている。二ノ郭の北側には前述の通り三ノ郭があるが、三ノ郭は2段の平場で構成されている。以上が福原城の概要で、かなりしっかりした普請の手が入っており、戦国後期の緊張感のある縄張りで見応えがある。
主郭南東の隅櫓台→DSCN5868.JPG
DSCN5832.JPG←そびえ立つ主郭東側の大切岸と空堀
二ノ郭の空堀から落ちる竪堀→DSCN5773.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.799440/140.069407/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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