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柳沢大楯(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN6887.JPG←主郭背後の大堀切
 柳沢大楯(柳沢大館)は、大楯城とも呼ばれ、大崎氏の家臣柳沢和泉守の居城と伝えられる。1591年、伊達政宗による葛西大崎一揆討伐の際に落城したと言う。尚、城主については、『日本城郭大系』では笠原七郎と言い、『陶芸の里 みやざきの文化財』では柳沢紀伊・同近江・同七郎(後伊豆)・同備前の居城と伝える。柳沢氏は笠原氏の一族であった様である。

 柳沢大楯は、宮崎城の東方約1.4kmの標高160m、比高80mの山上に築かれている。広い主郭を持つ城で、その規模は加美郡内で第一位とされる。南東麓の民家に通じる車道脇に城址標柱があり、その先に進み、一番奥の民家の裏に山へ入る山道が付いている。この道を辿って北へと登っていけば、やがて3~4段程の小郭群が現れる。従ってこの山道が大手道であることがわかる。但しこの小道は草木が多く、踏み跡がわずかなので、夏場は見出すことが困難であろう。小郭群を横目に大手道を登っていくと、左手に竪堀が見え、右手には上の段に登っていく桝形虎口が築かれている。桝形虎口の奥には櫓台が築かれ、城道はこの左手(西側)の腰曲輪へ迂回して奥に通じている。櫓台の背後には主郭に通じる土橋が架けられている。ちなみに櫓台の東側にも腰曲輪があるが、土橋に通じる部分に片堀切が穿たれ、動線を制約している。土橋の先は広大な主郭で、東側は急崖で囲まれているが、西側には腰曲輪が延々と築かれている。主郭の北西部には大土塁が築かれ、主郭の背後には深さ10m以上の大堀切が穿たれている。この大堀切は箱堀で、南西部は屈曲しながら西の谷に向かって深く落ちている。前述の主郭西の腰曲輪から深い横堀状の切通し虎口が、堀切に繋がっている。主郭にはこの上にだけ大土塁があるので、ここが防御の要の一つであったと思われる。大堀切の北西にも太鼓森と呼ばれる広大な平地が広がっている。この太鼓森の掘切沿いにだけ、桝形虎口と横堀・土塁の塹壕線が構築されている。横堀の中央部には土塁に通じる土橋も架かっている。以上が柳沢大楯の遺構の概要で、宮崎城がコンパクトに纏められた殺気立った実戦の城だったのに対して、広大な主郭は居住機能を優先させた城だった様に思われる。

 私見であるが、どうも太鼓森の広大な平場は、宮崎城に立て籠もった一揆勢の将兵の親類縁者の避難場所だったのではないだろうか。太鼓森は広大なのでちょっとしか見ていないが、城郭遺構があるのは主郭背後の大堀切沿いだけで、それ以外はただの平地が広がっているだけなのである。太鼓森入口に築かれた桝形虎口や塹壕線は、避難民たちを守る最後の防衛線で、柳沢大楯の主郭を蹂躙して迫り来る伊達軍の猛兵をここで必死に食い止め、避難民を逃がす時間を稼ぐため最後の抵抗をしていた様に思う。そう思うと、伊達勢に殲滅された悲劇の城であり、もの悲しい気持ちになった。
主郭に通じる土橋→DSCN6857.JPG
DSCN6879.JPG←主郭北西の大土塁
太鼓森の土塁・横堀の塹壕線→DSCN6933.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.621162/140.776674/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


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