峰高城(栃木県真岡市) [古城めぐり(栃木)]
←主郭跡付近の現況
峰高城は、天正年間(1573~92年)に宇都宮城主宇都宮広綱に仕えた豊田若狭守綱斎が、物井を領して築城したと伝えられる。綱斎の没後は長斎が継いだが、1597年に宇都宮氏が改易となると廃城となり、豊田氏は帰農したと言う。
峰高城は、桜町陣屋に程近い峰高集落付近に築かれていた。四重の堀で囲繞した回字形の平城であったとされるが、現在は耕地化で遺構は完全に湮滅している。地元の方から伺った話では、数十年前まで主郭北にある民家の裏に土塁が残っており、きつね山と呼ばれていたと言う。この民家の屋号も「きつね山」で、きつね山の脇には堀跡もあったらしい。ブルドーザーで掘ったらどんどん掘れたとのことで、かなり深い堀であった可能性がある。
尚、城の中心付近から南西に150m程の所に、大きな楠がこんもり茂った場所があり、そこに城主豊田氏の墓石群があることも教えていただいた。大小20基程の五輪塔群が整然と並んでいるが、東日本大震災でだいぶ崩れたのを、心棒を入れて直したとのことである。
話を伺ったのは中年の方々だったが、地元では城の歴史が若い世代にもしっかりと伝えられており、なかなか素晴らしいことである。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.402995/140.011214/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
峰高城は、天正年間(1573~92年)に宇都宮城主宇都宮広綱に仕えた豊田若狭守綱斎が、物井を領して築城したと伝えられる。綱斎の没後は長斎が継いだが、1597年に宇都宮氏が改易となると廃城となり、豊田氏は帰農したと言う。
峰高城は、桜町陣屋に程近い峰高集落付近に築かれていた。四重の堀で囲繞した回字形の平城であったとされるが、現在は耕地化で遺構は完全に湮滅している。地元の方から伺った話では、数十年前まで主郭北にある民家の裏に土塁が残っており、きつね山と呼ばれていたと言う。この民家の屋号も「きつね山」で、きつね山の脇には堀跡もあったらしい。ブルドーザーで掘ったらどんどん掘れたとのことで、かなり深い堀であった可能性がある。
尚、城の中心付近から南西に150m程の所に、大きな楠がこんもり茂った場所があり、そこに城主豊田氏の墓石群があることも教えていただいた。大小20基程の五輪塔群が整然と並んでいるが、東日本大震災でだいぶ崩れたのを、心棒を入れて直したとのことである。
話を伺ったのは中年の方々だったが、地元では城の歴史が若い世代にもしっかりと伝えられており、なかなか素晴らしいことである。
城主豊田氏の墓石群→
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.402995/140.011214/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
豊田氏の墓石群はどこにあるか、差し支えなければ教えていただければ幸いです。自分のご先祖様と聞いたもので、機会があれば訪ねてみたいと思いました。
by アラ (2023-08-14 01:07)
>アラさん
こんにちは。当ブログにご訪問いただきありがとうございます。
場所は下記リンク先の場所となります。
よろしくお願いします。
https://maps.gsi.go.jp/#16/36.402417/140.009809/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
by アテンザ23Z (2023-08-14 18:47)