役原城(群馬県高山村) [古城めぐり(群馬)]
←主郭北東側の切岸
役原城は、関東管領山内上杉氏の重臣で白井城主であった長尾景春の3男長尾重儀が築城したと伝えられる。長尾景春といえば、関東全域を戦乱の渦に巻き込んで太田道灌と渡り合った大規模な叛乱「長尾景春の乱」で有名である。重儀は、後に尻高城を築城し、尻高左馬頭重儀と改めた。明応年間(1492~1501年)頃に息子に尻高城主を譲り、役原城に隠居したと言う。
役原城は、役原川西岸の段丘の縁に築かれている。城の東側は川に臨む崖となっており、西側を堀で台地との間を断ち切った城だった様である。現在城址標柱と解説板が立っている畑が主郭で、縦長の長円形をしている。主郭は北から東にかけては段丘崖の切岸で囲まれ、西側は堀跡が一段低い道路となって残っている。主郭の南には、堀切跡の道路を挟んで、台形状に広がった二ノ郭があった様である。城内は宅地や畑に変貌しており、改変が多いので、城域がどこまで広がっていたのか、判断が難しい。尚、堀跡の道路から西側の台地の方が、城内の曲輪より高い位置にあるのも少々謎である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.631182/138.924962/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
役原城は、関東管領山内上杉氏の重臣で白井城主であった長尾景春の3男長尾重儀が築城したと伝えられる。長尾景春といえば、関東全域を戦乱の渦に巻き込んで太田道灌と渡り合った大規模な叛乱「長尾景春の乱」で有名である。重儀は、後に尻高城を築城し、尻高左馬頭重儀と改めた。明応年間(1492~1501年)頃に息子に尻高城主を譲り、役原城に隠居したと言う。
役原城は、役原川西岸の段丘の縁に築かれている。城の東側は川に臨む崖となっており、西側を堀で台地との間を断ち切った城だった様である。現在城址標柱と解説板が立っている畑が主郭で、縦長の長円形をしている。主郭は北から東にかけては段丘崖の切岸で囲まれ、西側は堀跡が一段低い道路となって残っている。主郭の南には、堀切跡の道路を挟んで、台形状に広がった二ノ郭があった様である。城内は宅地や畑に変貌しており、改変が多いので、城域がどこまで広がっていたのか、判断が難しい。尚、堀跡の道路から西側の台地の方が、城内の曲輪より高い位置にあるのも少々謎である。
堀跡の道路→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.631182/138.924962/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
コメント 0