山中氏館(山梨県山中湖村) [古城めぐり(山梨)]
←わずかに残る土塁
山中氏館は、この地の土豪山中氏の居館である。『妙法寺記』には山中氏の記述が2ヶ所あり、1つは1494年の武田氏の守護職をめぐる内訌においてで、3月16日の合戦で「山中殿」が討死したと記載されている。2つ目は1527年で、「山中太郎左衛門」が50人を伴って御本寺(沼津市の光長寺)を参詣したと記載されている。この年は甲斐・駿河の間に和睦が成立した年であり、それまでの30余年にわたって岳麓地域で繰り広げられた戦の戦死者を供養するためのものと推測されている。その後の事績は不明であるが、『甲斐国志』にある甲陽浪客山中美濃守介勝、その子主水介行、慶長郷村帳の山中佐太夫等は、太郎左衛門の子孫と推測されている。
山中氏館は、山中湖畔に程近い、山中諏訪神社の南側にある。この一帯は「御所」の字名が残り、かつては内御所・外御所に分かれ、四方に石垣があり、その外側に深い堀があったとされる。現在は民家の脇に北西隅の土塁がわずかに残るだけである。尚、館跡の西方100m程の所に山中太郎左衛門の五輪塔が残っている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.426651/138.848562/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
山中氏館は、この地の土豪山中氏の居館である。『妙法寺記』には山中氏の記述が2ヶ所あり、1つは1494年の武田氏の守護職をめぐる内訌においてで、3月16日の合戦で「山中殿」が討死したと記載されている。2つ目は1527年で、「山中太郎左衛門」が50人を伴って御本寺(沼津市の光長寺)を参詣したと記載されている。この年は甲斐・駿河の間に和睦が成立した年であり、それまでの30余年にわたって岳麓地域で繰り広げられた戦の戦死者を供養するためのものと推測されている。その後の事績は不明であるが、『甲斐国志』にある甲陽浪客山中美濃守介勝、その子主水介行、慶長郷村帳の山中佐太夫等は、太郎左衛門の子孫と推測されている。
山中氏館は、山中湖畔に程近い、山中諏訪神社の南側にある。この一帯は「御所」の字名が残り、かつては内御所・外御所に分かれ、四方に石垣があり、その外側に深い堀があったとされる。現在は民家の脇に北西隅の土塁がわずかに残るだけである。尚、館跡の西方100m程の所に山中太郎左衛門の五輪塔が残っている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.426651/138.848562/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:居館
2020-12-18 02:00
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