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岩崎氏館(山梨県甲州市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN2350.JPG←館跡周囲の急崖
(2020年8月訪城)
 岩崎氏館は、立広砦とも言い、甲斐源氏の一流岩崎氏の居館である。武田信光の子七郎信隆がこの地に入部し、岩崎氏を称したのに始まる。岩崎氏は、生山系図によれば甲斐源氏の棟梁職を表す御旗・楯無鎧を8代にわたって相伝したとされ、岩崎直信の時に守護武田信重に伝えたと言う。また『太平記』等の南北朝期の記録には、甲斐守盛正(盛信、岩崎氏の一族)・武田甲斐前司の名が見え、岩崎氏が一時、甲斐守であったことを示している。これらのことから、岩崎氏はこの頃、武田惣領家と相並ぶ地位にあったことをうかがわせている。しかし1457~8年の守護武田信昌と守護代跡部景家との戦いに岩崎氏も巻き込まれ、岩崎小次郎・岩崎源次郎が戦死しており、その他一族の多くが討死して滅亡したと言う。
 尚、岩崎氏が活躍した鎌倉時代から室町時代前半期は、記録が少ないことから甲斐史の空白期とも言われ、岩崎氏はこの間に登場する数少ない氏族と言う。

 岩崎氏館は、坂下川という小河川の南にそびえる段丘辺縁部に築かれている。選地は勝沼氏館とよく似ている。西と南を空堀で分断し、北は急崖、東も谷が入り込んだ急崖で囲まれていたが、南は勝沼バイパスが、西は市道が貫通していて、堀跡は完全に破壊されている。残っているのは北と東の切岸の急崖だけである。郭内はほとんどがぶどう畑になっており、残る部分も民家となっている。南西隅に太鼓楼跡とされる土壇があったが、これも現在は砕石が敷かれた駐車場になってしまっている。昭和20年代前半の航空写真を見ると、西と南の堀跡が明瞭で、南の中央付近には角馬出しもあった様に見受けられる。本当に馬出しが存在したとしたら、戦国期まで時代が下ることが確実で、岩崎氏滅亡後も砦として機能した可能性がある。立広砦と言う別称も戦国時代の使用によるものかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.652903/138.722101/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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