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上野城(山梨県南アルプス市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN2697.JPG←主郭跡の空き地
(2020年8月訪城)
 上野城は、椿城とも言い、甲斐武田氏の庶流大井氏の居城である。元々の創築は、鎌倉時代に小笠原長清の孫上野六郎盛長によるとされる。城の付近に椿が多いことから椿城と呼ぶようになったと言う。その後しばらくの間、上野城の事績は不明となるが、戦国時代には武田氏の庶流大井上野介信達がこの城に拠った。大井氏は、南北朝時代の観応年間(1350~52年)に武田氏10代信武の2男信明が大井庄を領有し、大井氏を称したことに始まる。大井氏6代信達の頃には西郡一帯に勢力を拡大し、有力な国人領主に成長した。1507年に14歳で武田氏の家督を継いだ信虎に対して、1515年、大井信達・信業父子は駿河の今川氏親の援助を受けて、信虎に反抗した。信虎は大井氏討伐のため上野城を攻撃したが、大敗した。また大井氏を支援した今川勢は、郡内の吉田城や中道の勝山城に拠って信虎方に攻撃を加えた。しかし1517年、信虎は勢力を盛り返し、勝山城の今川勢を孤立させ、今川氏と武田氏が和睦し、大井氏も信虎に降った。その後、信達は、今井・栗原氏らと再び叛乱を起したが、1520年に敗れて信虎の家臣となった。信達の娘は、信虎の正室となり、晴信(信玄)・信繁・信廉を生み、大井夫人と称せられた。信達は、大井宗芸・武田高雲斎と号し、晩年は信玄の外祖父として重きを成したと言う。信業の弟虎昌は信玄・勝頼2代に仕え、1579年に81歳で没した。その子昌次も信玄・勝頼に仕えたが、1582年の武田氏滅亡・織田信長横死後に生起した天正壬午の乱の時に徳川家康に服属し、以後徳川氏の旗本となって続いた。

 上野城は、櫛形山の東の山裾の、市之瀬川・堰野川に南北を挟まれた丘陵上に築かれている。現在城跡は上野集落の一角にあり、城内は畑や宅地に変貌している為、遺構は完全に湮滅している。しかし1989年に行われた地中レーダー探査が行われ、堀跡などが確認されている。現在、空き地となっているのが主郭と考えられ、その脇には秋山氏の墓所がある。主郭の南東にある本重寺の墓地には、大井氏の墓所がある。本重寺には城址碑が建っている。信虎の攻撃を撥ね退けた程の城であるから、往時はかなりの要害であったと思われるが、現在からその姿を想像するのは困難である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.602707/138.442336/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/03/24
  • メディア: 単行本


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