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魚津城(富山県魚津市) [古城めぐり(富山)]

DSCN3416.JPG←城址の石碑
 魚津城は、越後上杉氏の越中支配の重要拠点であり、織田勢の猛攻を受けて落城した城である。元々の築城は、室町中期以降に新川郡守護代で松倉城を本拠とした椎名氏によると考えられている。一説には、建武の新政期の1335年に椎名頼胤が築城したとも言われる。戦国後期の1569年、上杉謙信は越中に侵攻し、松倉城と共に魚津城を攻め落とした。魚津城には上杉氏の部将河田豊前守長親が置かれ、以後交通の要地を押さえる魚津城は上杉氏の重要拠点となった。その後、山本寺伊予守など有力部将が配置された。1578年に謙信が急死すると、上杉家中は跡目を巡って内訌(御館の乱)を起こしたため、織田信長の筆頭家老柴田勝家率いる織田勢の越中侵攻を許し、越中の上杉方は次第に東部へ追い詰められ、魚津・松倉両城を最期の頼みとして戦うことになった。1582年3月下旬頃、中条景泰ら12人の武将が立て籠もった魚津城は、織田方の柴田勝家・佐々成政・前田利家らの攻撃を受け、激しい攻防が数ヶ月にわたって繰り広げられた。しかし揚北衆の新発田重家の反乱で苦境にあった上杉景勝は、なかなか援軍を出すことができず、4月23日に魚津城将12人が景勝の執政直江兼続に送った決別の書状を見るに及んで、不利を承知で5000余人を率いて出陣し、5月15日に天神山城に後詰として着陣した。この動きを知った織田方は5月下旬、旧武田領の上野を支配した滝川一益と、信濃川中島4郡を支配した森長可とが、それぞれ越後への侵攻を開始した。特に森軍は景勝の本拠春日山城を目指して進軍しており、急報を受けた景勝は5月27日、やむを得ず春日山城に向けて撤退した。魚津城の城将12人は、降伏を肯んぜず、織田勢の猛攻に力戦して一人残さず討死し、6月3日に魚津城は落城した。それは、本能寺の変の翌日のことであった。落城直後に織田信長横死の報を受けた柴田勝家・佐々成政・前田利家ら織田勢は翌4日に魚津城から引き上げ、まもなく上杉方は魚津城を奪回し、須田満親が守将として置かれた。しかし翌83年、態勢を立て直した佐々成政の攻撃を受け、二ノ丸を奪われた満親は城を明け渡して退去した。以後、佐々氏の持ち城となり、佐々氏が豊臣秀吉に降伏して肥後に移封となると、前田利家の支配下となった。その後、1615年の一国一城令で廃城になったと推測されている。

 魚津城は、現在の大町小学校の校地にあった。現在は遺構はすべて湮滅している。ほぼ方形の本丸をコの字型に囲む二ノ丸で構成され、それぞれ水堀で囲んだ縄張りで、大手は西の海側に向いていた。遺構はないが、校地内に城址の石碑や解説板が立ち、その歴史を伝えている。尚、学校の南側に土塁跡の様なわずかな土盛り、また校庭の北西角に大土塁の様な土盛りがあるが、いずれも遺構ではないらしい。歴史上有名な城であるが、あまりに残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.813528/137.397165/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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