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放生津城(富山県射水市) [古城めぐり(富山)]

DSCN4655.JPG←城跡の石碑と解説板
 放生津城は、室町時代に射水・婦負二郡の守護代となった神保氏の拠点である。元々は、鎌倉末期に執権北条氏の一族で越中守護であった名越氏が、守護所として放生津城を築いた。1333年の鎌倉幕府滅亡に際し、越中守護名越時有ら一族・譜代79人は、5月17日に放生津城で自刃したと言う(『太平記』第11巻)。その経緯は、二塚城の項に記載する。室町時代の1380年に三管領家の一、畠山基国が越中守護を兼帯すると、その家臣で婦負・射水二郡の守護代となった神保氏が放生津城を居城とした。神保氏の越中入国の時期は不明であるが、守護代としての史料上の初見は1443年の神保備中守国宗からである。畠山氏は、礪波郡を遊佐氏、新川郡を椎名氏、射水・婦負の二郡を神保氏に支配させるという三守護代方式を採り、遊佐・椎名・神保氏はそれぞれ越中国内の実権を握っていき、後には激しい抗争を繰り広げることとなった。1454年に畠山氏の家中で当主持国の養子弥三郎と実子義就との間で家督争いが起き、翌55年に弥三郎方の神保国宗の居城放生津城は、義就方に攻められ落城した。この後、弥三郎が病死し、代わって弟政長が擁立されると、今度は政長と義就との間で抗争が繰り広げられた。政長・義就ともに勇将の器であったため、両者の抗争は激しさを増し、この管領家畠山氏の家督争いが応仁の乱の直接の導火線となった。畠山政長は、細川勝元の後援で管領となり、応仁の乱の勃発以後、神保長誠らは政長に属して畿内を転戦した。1493年4月、10代将軍足利義材(義尹・義稙)と畠山政長が河内出陣中に、京都では幕府重臣の細川政元(勝元の子)がクーデターを起こして堀越公方足利政知の子清晃を新将軍に擁立し、11代将軍足利義遐(義澄)とした(明応の政変)。この結果、政長は追い詰められて自刃し、義材は京都に幽閉された。しかし同年6月、義材は側近らの手引きで京都を脱出し、放生津城主神保長誠に迎え入れられて放生津に幕府政権を樹立し、京都の細川政元と対峙して越中公方(越中御所)と呼ばれた。義材はただの亡命者ではなく、放生津で実態のある政権を運営したことから、義材の元へ公家・大名が出仕し、禅僧・歌人ら多くの文化人も訪れ、放生津は北陸の政治・経済・文化の中心地として栄えた。1498年9月に義尹と改名した義材は、京都復帰を目指して越前の朝倉貞景の元へ移った。1519年、越後守護代長尾為景(上杉謙信の父)が越中に侵攻すると、神保長誠の子慶宗は要害性の高い二上城に立て籠もって抗戦した。翌20年、慶宗討伐のため再び長尾勢が越中に侵攻すると、慶宗は新庄城に布陣していた為景を攻撃したが、12月21日の合戦で惨敗し自刃した。その後、放生津城の名は史料から姿を消し、慶宗戦死後の神保氏の活動も大永・享禄期には途絶えた。天文年間(1532~55年)に慶宗の子長職が神保氏を再興すると、神保氏の拠点は富山城増山城守山城に移った。1585年に佐々成政が豊臣秀吉の軍門に降ると、加賀の前田利家が越中を領し、前田氏の武将が放生津城に入ったが、江戸時代初め頃までに廃城となった。江戸後期には、加賀藩の蔵屋敷となった。

 放生津城は、越中の主要な港であった放生津にあり、海陸交通の要地であった。かつては深田や川で守られた天然の要害であったらしく、主郭・二ノ郭の2郭で構成されていたらしい。しかし早くに廃城になったためと、現在は放生津小学校の耕地に変貌し、周囲は完全に市街化しているため、遺構はおろか城の痕跡さえ残っていない。わずかに校地の北辺に石碑と解説板があるだけである。歴史的な重要性に比して、あまりにも残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.776464/137.089881/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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