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宮崎城(富山県朝日町) [古城めぐり(富山)]

DSCN6471.JPG←三の丸の石積み
(2020年11月訪城)
 宮崎城は、1182年に北陸宮という皇族の御所として築かれたのが始まりとされる。即ち、1180年に平家打倒の令旨を各地に発して挙兵した以仁王が宇治川で敗死した後、その第一皇子北陸宮は1182年に京都を脱出して北陸に下向し、木曽義仲に属する豪族宮崎太郎長康に護られて宮崎に居住し、八幡山(城山)に御所を造営したとされる。後に皇位継承の望みを絶たれた北陸宮は入洛してこの地を去った。1221年の承久の乱では、京方の宮崎定範らが幕府方の北条朝時の軍勢を防ぐためにこの地に拠ったが、備えを破られて敗走した。時代は下って戦国時代になると、この地は越中守護畠山氏の新川郡守護代椎名氏の支配下に入った。しかし越後の上杉謙信が越中に進出して椎名氏を没落させると、越中の越後口を固める重要な位置にある宮崎城は、上杉方の越中進出の中継拠点として重要な役割を担った。その後、上杉氏の守将が置かれたが、謙信の死後に織田氏の軍勢が魚津城松倉城など上杉方の越中の拠点を攻略すると、宮崎城も佐々成政の手に落ち、成政の将丹羽権平らが守備についた。1584年10月、上杉景勝が越中に侵攻すると、その先鋒土肥政繁(元弓庄城主)の猛攻を受け、丹羽氏らは城を明け渡して退去した。その後、越中が前田利家の支配下に入ると、前田氏家臣の高畠織部定吉・小塚などの武士が配された。江戸時代になると境関所の整備に伴い廃城となった。

 宮崎城は、標高248.6mの城山に築かれている。かつて太平洋戦争時には帝国陸軍の電波技術研究所が設置され、また現在は公園化されており、城内はかなり改変を受けている。山頂に大きな土壇(櫓台か?)を持った本丸を置き、その西の尾根に二の丸・三の丸を築いた連郭式の縄張りとなっている。三の丸の南辺には低い石積みが残っている。三の丸の北側斜面には散策路の周囲に腰曲輪群が築かれている。その北限には七曲堀という堀切が穿たれているが、薮で少々わかりにくい。三の丸の南西には小堀切が穿たれ、北西の尾根には西出丸が築かれ、出丸の付け根に堀切・土橋が構築されている。この尾根の先には元屋敷城がある。一方、本丸の南には土橋状の通路(戦時中に埋められた堀切跡)を挟んで外郭があり、その南端に大きな土壇と堀切が残っている。またこの外郭の北西辺には畝状竪堀があるとされるが、薮が多くて全くわからなかった。改変が多いため、どこまで遺構が残っているのか不明確であり、消化不良気味になる遺構の状況である。
外郭南端の堀切→DSCN6419.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.962958/137.585424/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 2(東部編(下新川郡・黒部市・

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