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徳丸城(石川県中能登町) [古城めぐり(石川)]

DSCN8236.JPG←主郭
(2020年11月訪城)
 徳丸城は、天正年間(1573~92年)に織田方に付いた能登畠山氏の家臣長連龍が拠った城と伝えられる。連龍は、1577年の上杉謙信による七尾城攻撃の際、上杉氏の調略に応じた遊佐続光らの計略によって兄綱連を始めとする一族を滅ぼされた。復讐に燃える連龍は、織田信長の支援を受け、福水城に本営を置いて能登進攻の態勢を固め、1580年6月9日、菱脇の合戦で七尾城方の温井景隆・三宅長盛兄弟の連合軍を破った。能登の状況を見た信長は、同年9月1日、七尾城方の温井・三宅一党と連龍の和睦の調停をはかり、織田軍の尖兵となって能登で奮戦した連龍は信長より鹿島半郡を与えられ、福水城を居城とすることを認められた。連龍は次いで徳丸城に居城を移し、その後田鶴浜館を築館して居住したとされる。
 一方、徳丸城は、南北朝期の抗争の際、能登守護吉見氏の拠点の一つとして現れる能登部城と同一のものとする説がある。得田章房軍忠状・得江季員軍忠状によれば、1369年の元越中守護桃井直常の能登進攻に際し、得田章房・得江季員ら能登武士は能登守護吉見氏頼からの軍勢催促を受け、4月28日、鹿島郡の金丸城・能登部域に馳せ参じた。当時、両城は守護吉見氏の軍事拠点であり、金丸城に守護吉見氏頼が、能登部城に守護代吉見伊代入道が在城していた。章房らは両城の麾下にそれぞれ属して、連日桃井勢と合戦を繰返し、6月1日にこれを撃退した。この能登部城が発見されていないこと、徳丸城の縄張りが戦国末期のものとは考えにくいことから、徳丸城こそが能登部城であった可能性があると言う。

 徳丸城は、邑知地溝帯の北に連なる丘陵地帯の一角、標高150m、比高130mの清四郎山に築かれている。南麓に徳丸観音堂があり、その裏から登山道が整備されている。南北に伸びる主尾根に曲輪を連ね、更にそこから東西に派生する尾根にも曲輪を連ねた縄張りとなっている。前述の登山道を登ると、主尾根から南東に伸びる支尾根の先端にある小郭に至る。小郭の先に土橋の架かった堀切が穿たれ、その上に曲輪、更に堀切を越えた先に三ノ郭(別名、火の見台)がある。三ノ郭は南東と西に腰曲輪があり、西尾根の先に西郭が築かれ、その先端も堀切が穿たれ、その先に小郭が置かれている。三ノ郭と西郭との間の尾根は、両端の付け根に片堀切が穿たれている。三ノ郭の北の尾根の先には二ノ郭群(別名、風呂屋敷)が築かれている。二ノ郭群は、頂部の狭小な曲輪とその南東斜面に築かれた数段の曲輪群で構成されている。東端には物見台がある。二ノ郭群の更に北に主郭群(別名、調度)がある。主郭群も頂部の小ぶりな平場と、南と西の腰曲輪群で構成されている。主郭の北と東に堀切が穿たれ、東尾根には小郭群が続き、堀切もある。主郭の北西にも段々に円弧状の腰曲輪群が築かれている。主郭群の北には、北郭(別名、馬責場)がある。北郭はおそらく物見であろう。その東西にも小郭があり、特に東尾根の先端には堀切が穿たれている。
 以上が徳丸城の遺構で、曲輪はあるものの大した広さはなく、また基本的に峰と峰を細尾根で繋いだ地勢なので、城内の居住性はほとんどない。また堀切の規模も大きくはなく、長連龍が拠った戦国末期の時期から考えると、前時代的な縄張りである。そうした事実を考えると、徳丸城が南北朝期の能登部城と同一の城とする見解は、至極妥当なものと思う。
最初に出てくる堀切と土橋→DSCN8086.JPG
DSCN8100.JPG←三ノ郭
二ノ郭群→DSCN8147.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.969695/136.867493/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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